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〈生涯現役〉 50年前、朝大校舎建築に携わった(上)−金鼎宣さん

「飯が食えるから」と恩師

 「苦難の道の果ての大輪の花」−評論家の故寿岳章子さんが1981年、朝鮮大学校の創立記念日に寄せて詠んだ歌である。多くの人々の労苦によって、計り知れないほどの困難に打ち勝って築かれた異国・日本における民族教育の最高学府。昨年11月1日、朝鮮大学校学舎小平移転50周年記念フェスタが同校キャンパスで開かれた。
 この日の式典に誰よりも晴れやかな面持ちで参列したのが、50年前、同校建築に携わった一級建築士・金鼎宣さんである。3月には90歳になる。現在は、関東興業桝纒\取締役。

平壌で生まれ育つ

平壌に生まれ、日本に学びにきた金鼎宣さん

 金さんは日本の植民地時代の1920年、平壌・万寿台近くで産声をあげた。

 記憶は4〜5歳のときから鮮明になる。近くのキリスト教系の幼稚園に通い、クリスマスには賛美歌を歌いながら近所を練り歩いたと懐かしむ。父は朝鮮総督府の官吏だった。計量技師として、鴨緑江の水豊ダムから済州島までよく出張に出かけていた。

 オモニは平安南道江西の出身。苦労知らずに育った一人娘だった。祖父同士が気に入って結婚させた。アボジは13歳、オモニは14歳だった。長男の金さんが誕生したのは6年後。その3カ月前には、金さんの叔父が生まれたばかりだった。「オモニにとっては辛い結婚生活だったと思う。

平壌公立高等普通学校時代の金さん(前列左から3人目)

 夫はまだ学生、台所に乳飲み子を抱えた姑と2人で立つが、姑は才覚があって切り盛り上手。2人とも自分の子どもで張り合うわけだし…」。そんな暮らしはまもなく破綻して、オモニは妹のお産のため実家に帰り、金さんは祖父母の下で暮らすことに。

 金さんの祖父は平壌・箕林里で私塾の箕林学院を創設した篤志家。日本の統治下にあっても、地域の子どもたちに千字文などを教えた。

 「幼い頃から母の愛情を知らずに育った」金さんだったが、学問を尊ぶ祖父母の下で不自由のない生活を送った。後にアボジは、転勤先のソウルで別の女性と暮らすようになった。「この女性は才女で、父のスーツも自分で仕立てて縫う人だった」。平壌万寿公立普通学校から平壌公立高等普通学校へ、さらに、日本の大学に進むとき、受験費用を用立ててくれたのもこの女性だったと、金さんは70年前の遥かな思い出を手繰り寄せた。

横浜国大建築科へ

金鼎宣さん(1959年4月15日)

 平壌公立高等普通学校時代は「遊びすぎて落第した」と笑う。剣道やバスケットに夢中になったりしたが、日本の教師に誘われて絵画部へ。「図工が得意で、あとはからきしダメだった。でも、卒業のとき先生に、『君んち貧乏か。絵は売れないと金にならないしな。じゃあ、建築やりなさい、飯が食えるから』といわれた」。結局、恩師のこの一言が生涯、建築の道で生きるヒントとなった。

 平壌での多感な少年時代。将来の進路に迷っていた金さんは京城高等工業学校を受験したが失敗。勉強に身が入らないのを案じた祖父母からは「勉強するよりも結婚しなさい」と勧められた。そんなときに3カ月先に生まれた叔父は渡日し、法政大学に入学。金さんは結婚を迫る祖父母を振り切って、その叔父を頼って、東京に向かうことにした。実母とは連絡も途絶えていたが、ソウルの女性が当座の金を出してくれた。

 39年、東京・目黒の叔父の下宿に転がり込んだ金さんは不退転の決意で受験に取り組んだ。「後がない。ここで合格できなかったら、死ぬしかない」という思いつめた気持ちだったという。予備校の東京・神田の研数学館で半年間学び、ついに横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)建築科に入学した。40年、20歳の新しいスタートだった。

 ここでは後の人生を大きく左右する師や親友たちとの出会いが待っていた。なかでも強烈な印象を受けたのが、パリの大学で建築を学び、当代随一として名を馳せていた中村順平教授であった。

 「中村先生は建築家の心構えを、第一に情熱家であれ、第二に正直であれ、第三に質素であれと説いた。そして、こう付け足したものだ。俺は『政治家は嫌いだ、嘘をつかないと政治家にはなれないからな』と」。 建築を志して今年で70年。思い起こせば、中村先生のこの言葉を心に刻んで歩いてきた気がすると、金さんは語った。後にここを巣立った生涯の友が、朝大の新校舎建設の際に尽力してくれることになる。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.1.29]