〈渡来文化 その美と造形 2〉 広隆寺 宝冠弥勒菩薩半跏思惟像、宝髻弥勒菩薩像 |
敗戦後の日本で新しく国宝指定制度ができて、その第一号に指定されたのがこの「弥勒菩薩半跏思惟像」(宝冠弥勒)である。
「細い眼、はっきりした眉、それにつづく通った鼻筋によって、まことにすっきりと整えられていて、唇の両端にやや力を込めているために多少微笑を含んでいるように感ずる。両手の表現は変化があり優雅な趣に溢れ、特に右腕のカーブの線が美しく、そして両足を被う裳が台座に垂れかかる部分は皺を顕著に表わし、又、衣端に変化を与えている点は上方の簡素な表現と対照的で非常に美しいのである」(「広隆寺縁起」)
哲学者カール・ヤスパースは次のように言う。 「私は今まで哲学者として、人間存在の最高に完成された姿の表徴としてのいろいろなモデルに接してきました。古代ギリシャの彫像を見、ローマ時代に作られた多くの彫像も見たことがあります。…しかし、この広隆寺の弥勒像には、真に完成されきった人間実存の最高の理念が、余すところなく表現され尽くしています…」と。 また、像の木目が顔を斜めに走り、腕では縦に、折った右膝では丸く円を描いて先でまとまるという、本来見えないようなところにまで目配りされた、材料の木の表情を知り尽くした驚嘆すべき像でもある。 人間の将来を見透かそうと思惟するとこのようなお顔、お姿になるのかもしれない。 この像の素材は、日本に豊富にあって香もよく、古代より仏像彫刻に多く用いられた樟ではなく、朝鮮では最も多生していて、油分の多い彫刻も困難な赤松を用いている。朝鮮で製作されたものか、あるいは、本国で赤松を素材に彫りなれた渡来人仏師の手になるものと考えられる。 この像と同じ意匠の金銅仏がソウルの国立博物館に所蔵されていて、朝・日双方の関連の深さが見て取れる。 広隆寺は、「日本書紀」によれば、推古年代に聖徳太子が新羅から送られた仏像を秦河勝に与え、それを祀った蜂岡寺がその始まりで、この時の仏像が宝冠弥勒半跏思惟像であるという。 秦氏は新羅から渡来した豪族で、嵯峨野、太秦の地を拠点に大繁栄をみた。 また、このとき、樟の一木造り漆箔仕上げの弥勒菩薩半跏像(俗称・泣き弥勒、7世紀後半、像高66.3センチ)が一緒に祀られたとされる。寺伝では、百済の渡来仏であると言う。(朴鐘鳴 渡来遺跡研究会代表、権仁燮 朝・日関係史専攻) [朝鮮新報 2010.1.25] |