〈シリーズ・「韓国併合」100年 日本の朝鮮侵略思想を告発 琴秉洞先生に学ぶ−中〉 石橋湛山の朝鮮認識評価 |
琴先生は、石橋湛山の朝鮮認識を高く評価された。私も、琴先生の評価に強く共感しているので、ここに引用させていただく。「さて、石橋湛山の朝鮮認識である。朝鮮で三・一独立運動が起こった。湛山は社説に次のように書く。『およそ如何なる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来殆どない。…朝鮮人も一民族である。彼らは彼等の特殊なる言語を持って居る。衷心日本の属国たるを喜ぶ鮮人は恐らく一人もなかろう。故に鮮人は結局其の独立を回復する迄、我統治にたいして反抗を継続するは勿論、而かも鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、其反抗は愈よ強烈を加うるに相違ない』」。結局は、「鮮人を自治の民族たらしむ外にない」と。
さらに、1921年、米国の提案で軍備縮小会議が開かれたとき、東洋経済新聞社説に「一切を棄つるの覚悟」を発表し、「例えば満州を棄てる、山東を棄てる、…台湾に自由を許す。其結果は何なるか」、また、社説「大日本主義の幻想」で「台湾、朝鮮、樺太を領有し、支那、シベリアに干渉することが、我経済的自立に欠くべからざる要件などと言う説」があるが、「事実を明白に見ぬ為に起こった幻想に過ぎない」と断じ、軍備についても「他国を侵略する目的でないとすれば、他国から侵略される虞れのない限り、我国は軍備を整うる、必要のない筈」と。これは、8.15敗戦後の新憲法9条の精神を先取りしている卓見といわざるをえないと指摘する。 また、1923年9月1日、関東大震災で6千人の朝鮮人が虐殺された時、湛山は「社説」に「この経験を科学化せよ」を発表し「流言蜚語は盛んに走った。而して其流言蜚語を寧ろ警察や軍隊が伝播した」「青年団及び在郷軍人団等は、竹やりを持ち、或いは古武器を担ぎ出して諸所に屯し、通行人を誰何したり、或いは気の毒なる一部の同胞を追い廻すことには争って従事した」。 「小評論」に「所謂鮮人の暴行」と題し、「日本は万斛の血と涙を以て、過般の罪をつぐなわなければならぬ」、また「気の毒な自警団」と題し、「小評論子は先日衆人しゅう座の中にて殺人行為を誇らかに語ったものあるを見て、これは由々敷大事である…彼等の或る者は其の殺人を以て一ぱしの国家の為大功を立てたかに思っていたのである。そもそも彼等をして、斯く思い込まし者は誰か。それこそ実に真の犯罪である」と。琴先生は、「湛山には朝鮮人虐殺の真の犯罪人が見えていたのである」と断じておられる。 ある日、琴先生に「元山ゼネスト支援小樽港湾労働者の闘い」について申しあげると、「すごい! そんな連帯闘争があったのですか、すぐ書いてください」といわれて、寄稿したのが、朝鮮時報(96年1月25日付)の「応援しなくちゃいけん! 元山ゼネストに連帯した伊藤権之助さんのこと」の記事になった。 無産新聞(1929年2月15日付)は「元山総罷業に際し全日本の労働者に訴ふ」の元山労働者の訴えを1面トップで報じるとともに、「元山労働者を見殺しにするな」の社説を掲げ支援を訴えた。この呼びかけに応えて「連帯スト」を組織したのが伊藤権之助さんであった。「わしはな、警察から『問題の権』と呼ばれておった。『権が動くと必ず問題を起こす』といって監視されておった。東京の全協から『朝鮮の元山の労働者が大変だ! 応援しなくちゃいかん!』という連絡がきた。昔のことだから、細かいことは、ハッキリと憶えておらんが、マントの下にビラを隠してな、『朝鮮の元山の労働者が大変だ!』と訴えて回ったことだけは憶えている」と話してくださった。 当時、小樽は函館とともに「蟹工船」の基地であった。小林多喜二は、彼の著書「蟹工船」で、船内の労働がいかに人権を無視・抹殺した過酷なものであるか、その「たこ部屋」労働の実態を描き、「辺境」における帝国主義国家・日本の搾取と隠された侵略の意図を暴露し告発している。そのなかで、逃亡して捕まった「土方」を棒杭にしばり、馬の後足で蹴らせたり、土佐犬に噛み殺させたりしていた。この蟹工船には多くの朝鮮人労働者が酷使されていた。そして、「蟹工船」内の朝鮮人労働者のなかでは「秘密の合言葉」があった。 それは「権さんのところに行け! 脱出できるぞ!」というものであった。「蟹工船」が小樽に着くや、朝鮮人労働者は夜陰にまぎれて、甲板から海に飛び込んだ。そして、命がけで頭に刻み込んだ地図を頼りに権さんを訪ねたのである。権さんは訪ねて来た朝鮮人労働者を迎え入れると、奥さんとともに素早く衣類を脱がせ、濡れた衣類を土中に埋め、乾いた衣類に着替えさせた。追跡してきた騎馬警官が、一番先にやったことは、股間にいきなり手を入れて、股引が濡れているかいなかを調べることだった。「わしはな、しまった! と思った。はじめ、そこまでやるとは気がつかなかった。油断しておった。せっかく命がけで逃げてきた朝鮮人の仲間を奪われてしまったのだ! それからというものは、婆さんに(と机に置かれた奥さんの遺影を指し)どれだけフンドシを作らせたか分からん! 本当に! どれだけフンドシを作らせたことか」。朝鮮人にはフンドシ着用の習慣がない(朝鮮の男性はソゴッという下着を着用)が、権さんは朝鮮人労働者を確実に救うために、フンドシの一時着用を考え実行したのだった。 「あの人たちは本当に義理堅い人だよな! おれは、あんなこと許せない、人間として許せないと思ってやっただけだ。ところが、あの人(朝鮮人)たちは、決して忘れていないんだな。敗戦後のある日、『権さんいるか? 権さんいるか?』と玄関でものすごい大きな声がするから出てみると、ドサーッと天から、米や肉が降ってきた! ドサッー、ドシンと玄関さ投げて行くんだ! 『おれは、あの時の金だ! 蟹工船から逃げてきた金だ!』『おれは、あの時の朴だ! 李だよ! 今度祖国に帰ることになったんだ』『権さん元気でな!』と」 日本が、朝鮮人民から祖国を奪い、朝鮮に君臨し朝鮮人を蔑視していたとき、権さんは、民族の解放をめざす朝鮮人民の側に立って、闘ったのである。72年1月16日、伊藤権之助さんは逝去された。享年84歳であった。(山本玉樹 北海道大学総合博物館資料研究員・北海道在日朝鮮人の人権を守る会) [朝鮮新報 2010.1.22] |