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〈渡来文化 その美と造形 プロローグ〉 朝鮮三国から古代日本へ

多様な「国際化時代」

阿修羅像(奈良市興福寺、8世紀中葉、国宝)。09年中、日本人の耳目が集中した大変美しい像。詳しくはシリーズの中で紹介する。製作者が確認できる珍しい像である。

 古代社会における文化の伝播のありようは、必ずある文化の担い手としての人間の移動があってのみ可能である。現代社会と違って、手段としてはそれしかないのである。

 古代日本もまさにそうであった。

 西暦紀元前3世紀頃、日本の北九州地域で初めて金属器が使用され、稲作も本格的に始まった。これは、日本史の内在的発展要因のみによって始まったものではなく、外からの文化の移入にもよる。

 弥生時代文化の直接的始源の地は朝鮮であった。つまり、金属器文化、稲作文化の担い手たちであった主として朝鮮南部の人々の北九州移住が日本の新しい弥生時代への途を切り開いた。

 時代が降り、5世紀前後の日本は、奈良地方を中心に大きなまとまりを示し始め、それが周辺地域を取り込んでいきながら支配体制を確立し、国家形態を形作っていった。これを支える生産の基本的なあり方は農業であった。その展開のために開拓に力を注ぎ、土木、灌漑工事を推し進めた。

 ここでも、支配体制の確立と農地の開拓、灌漑工事などに、新しい形態と技術の担い手となったのは、朝鮮三国−高句麗、百済、新羅と伽倻−から日本に移住した人々であった。

 この頃には、朝鮮三国との往来も繁くなり、日本の奈良地方を中心とした周辺地域に朝鮮からの移住民が一定の勢力をもって定着してゆく。百済から文字(漢字)を伝えたのもこの頃である。

 5世紀後半から6世紀にかけて、従来とは異なったより新しい文化、技術の担い手たちが続々と朝鮮から渡日し、政治、経済、文化のすべての面で強く深い影響を与えた。

 日本史では、これらの技術者を「今来才伎」と呼ぶ。「今来」は「新しくやって来た」、「才伎」は広義の「技術者」の意味である。

 仏教や儒教などの思想、そして建築、製陶、造仏、機織や鍛冶、絵画、武具、墓制などについての新技術が朝鮮から導入されたのはこの頃であり、日本の飛鳥文化もこれらの影響下で開花発展したといえるのである。

 7世紀中葉、新羅は唐と同盟して高句麗、百済を攻撃し、660年に百済を、668年に高句麗を亡ぼした。

 高句麗と百済の遺民たちの一部は日本に亡命を余儀なくされ、百済の人々は現在の大阪府、滋賀県を中心に、高句麗の人々は関東地方や信州地方一帯を中心に根づき、それとともに新羅からの人・文化も加わり、旧来から近畿地方を中心に根づいていた朝鮮三国出自の人々ともども、奈良時代(ほぼ700年代)全般にわたって活躍し、日本の天平文化の基本的な担い手ともなってゆく。

 日本の編年によれば7世紀末〜8世紀初めという高松塚古墳の壁画や、東大寺建立、大仏の鋳造などは、その著名な遺例の一部であった。

 ちなみに、ほぼ近畿地方に居住する平安時代初の貴族千百数十氏の出自を著した「新撰姓氏録」によれば、その約3分の1を占める300余氏は朝鮮三国出自の人々である。

 これらの人々は、その居住地域で相応の地位と勢力を築き、古代日本の中央政治とも関わりを持ちながら、政治、経済、文化の各分野を担う存在ともなった。彼らは、自分たちの信仰に従って氏寺を建て、祖先を祀り(神社として残る)、死亡した長を葬り(古墳として残る)、自らの技術によるさまざまな遺品、遺物−馬具、装飾品、武具、彫刻、土器、陶器−建築そして仏像などなどを現代に残した。時には、彼らの出身国が居住地の名称となり、歴史的遺称として現代に受け継がれたりもする。

 つまり、この時代は、限定的ではあるが、まことに多様な「国際化の時代」であったといってよいであろう。

 筆者が扱う時代は、5世紀前後から8世紀末までで、その間、日本に移住してきた、朝鮮三国の人々が古代日本でどのような美や造型を残したかを紹介しようと思う。(朴鐘鳴、渡来遺跡会代表)

[朝鮮新報 2010.1.18]