top_rogo.gif (16396 bytes)

〈渡来文化 その美と造形 1〉 石塔寺 三層石塔

滋賀県東近江市蒲生町

 布引山丘陵の麓、石塔寺の山門をくぐり、158段の石段を上りつめると、突然視野が開け、数千墓の五輪石塔と石仏に埋め尽くされた台地に出る。その中に三層石塔がそびえ立つ。

石塔寺(日本最古の石塔、7世紀、花崗岩、4.64メートル〈後補の相輪を覗く〉、重要文化財、滋賀県蒲生町)

 この石塔は、日本の三層石塔としては最大であり、最古のものである(相輪は後補)。各層が別石で組まれた塔身部は、背が高く梯形状で、初層のみは前後二枚石から成る。やや腰高に見えるが、各層の逓減率が大きいので安定的であり、群小塔の中にあって凛然と立つ、まことにスマートな塔である。

 その様式は、百済のものと細部手法やつりあいが共通する。

 現在、百済の故地に残る代表的石塔は、7世紀前半の弥勒寺址石塔(全羅北道益山郡)と定林寺五層石塔(忠清南道扶余)であり、後者が石塔寺の塔のルーツをなす。いずれも花崗岩を用いている。

 この定林寺の石塔様式を継ぐのが、高麗時代の長蝦里三層石塔(忠清南道扶余郡場岩面)である。高麗の石塔は、新羅の伝統を承けながらも、かつての新羅の故地であった慶尚道では新羅系の、百済の故地全羅道や忠清道では、百済系石塔様式が継がれる。

 長蝦里石塔は定林寺石塔を模したもので、石塔寺の石塔に最も近似している。

 石塔寺の石塔は8世紀前半のものと思われる。

 ※        ※

 石塔寺は旧蒲生郡に位置し、その地は百済からの渡来人集住地でもあった。

 669(天智天皇8)年、「佐平余自信・佐平鬼室集斯等、男女七百余人を以て近江国蒲生郡に遷し居く」(「日本書紀」)。

 余自信、鬼室集斯は百済の貴族で、佐平は貴族位の第一位である。

 これ以前、蒲生郡にはすでに百済からの渡来人が多くいた。

 5世紀後半から6世紀の初めにかけて、御船氏・民使氏・大友曰佐氏・大友氏・錦曰佐氏・安吉勝氏・秦氏などが蒲生郡に居住していて、後の二氏以外は百済人であった。

 さらに隣郡の神前郡(今の神崎郡)にも、665年、「百済の百姓男女四百余人」を遷した、と「日本書紀」にみえる。

 いわば、蒲生郡は「渡来人の里」であり、「渡来文化の里」でもあって、その文化は「百済文化」で彩られていたに違いない。

 石塔寺の三層石塔は、まさに「あるべき処に立っている」といえよう。(朴鐘鳴 渡来遺跡会代表)

[朝鮮新報 2010.1.18]