〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちK〉 元帝国最後の皇后−奇順女 |
憎悪と恨を超えて 高麗出身の皇后
奇順女、奇皇后である。元帝国末の30余年間、順帝(1320〜1370)の妃として元朝廷の実権を握った彼女は高麗出身であった。官吏劉基は彼女を「杏花のような白い顔、桃のような紅い頬、柳のような腰」(杏臉桃腮弱柳腰)と書いている。「元史」には次のような記述がある。「奇皇后は時間があると『女孝経』や歴史書をひもとき、歴代皇后の徳に習い、全国から送られてくる贈り物の中でも特に貴重なものは廟に祭祀を行った後で食した」。 奇皇后は聡明で美しく、積極的で野心家、洞察力に優れ、どんな困難の前でもあきらめない強い意志を持った自立した女性であったらしい。彼女は高麗出身の宦官たちの協力のもと、「高麗様」「高麗風」と呼ばれた生活様式や風俗を元に広め、皇后になるや「政治資金」を調達することに乗り出す。皇后の資金調達機関を改変し「資政院」を設置、高麗出身の宦官・高龍普を資政院使に任命、資政院は奇皇后を軸に高麗出身の宦官たちや官吏たちをも取り込み、「資政院党」と呼ばれる一大政治勢力を形成するに至る。政敵の甥を流刑から解き、高位の官職を与えるなどバランス感覚にも優れていた。同郷である宦官・朴不花を軍の最高位同知樞密院事に任命、事実上の軍事統率権をも掌握した。また息子アユシリダラを皇太子にすることに成功、安定的な権力基盤を築いていった。 また、1358年の大飢饉の際には官庁に命じ救済のための粥を用意させ、数十万人に達する餓死者のため資政院には金銀財宝や布帛、穀物などを供出させ、埋葬および葬式の手配をしたと「元史」には詳しい。「元史」にはまた、「(奇皇后の夫である)順帝は政治に怠慢」と記されている。
貢女として元へ
高麗幸州の奇子敖の五男三女中末娘であった奇順女は、元に送られた貢女だった。宮女として働かされていた彼女を高麗出身の宦官高龍普が見出し、順帝と引き合わせたのである。 元は、1231年から30余年間、高麗侵略のための長期に渡る戦いの末、完全な征服を断念、高麗と和平を結ぶもその条件として童男童女千人を要求、高麗が元に降伏した後も多くの少女を貢女として要求した。 高麗では「寡婦處女推考別監」などの官庁を設置、女性を「徴用」したのだ。たとえば1275年から70年余りの間に元に送られた處女進貢使の往来回数は50回以上。もちろん応じる家はなかったため、禁婚令が布かれ、處女登録制度を実施、13歳から16歳の幼い少女たちが身分の貴賎に関係なく強制的に連行されたので、女児の出産を隠匿、尼僧になる少女が続出、国家によって寺から連れ戻され絶望し自殺してしまう事件が頻繁に起きたという。
堂々たる一生
末っ子が外国に貢女として「売り飛ばされて」しまった奇順女の家族はどんな心情だったろうか? 彼女が元帝国の皇后になったことで、はたしてその悲しみや苦しみは消えたのだろうか? 彼女の兄が妹の権力を盾に私腹を肥やし、高麗の王に意図的に礼を欠きそのかどで殺されてしまうが、慢心ゆえの自業自得だと単純に断じてしまえるだろうか。 高麗という国家によって捨てられ、まだ十代の幼い年に見も知らぬ外国に連れて行かれそこでなめた辛酸を思うと、またアユシリダラという元帝国の皇太子の母としての奇皇后の立場を思うと、隷属的な立場からの脱却を主張し元に戦いを挑む高麗の恭愍王は、「息子のため」にも「自分の復讐のため」にも、亡き者にしたい相手であっただろう。ここで彼女は引き裂かれる。「隷属的な立場」からの脱却こそが、貢女などという非人道的で残酷な仕打ちをなくすことができる道であると、聡明な彼女は気づいていないはずはない。そして奇皇后は、80年以上続いていた高麗からの貢女徴用を廃止し、宦官徴用も規模を縮小するのである。また、高麗を元の一行省にせよとする「立省論」も廃止させるに及ぶ。 心と体に傷を受けた者は生涯その痛みから逃れられないが、傷をつけた者はすぐにそのことを忘れる。だから、憎悪や恨みを越えてその先に行くことは困難を極めるのだ。堂々たる一生である。(朴`愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2010.1.15] |