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〈朝大 朝鮮歴史博物館-5-〉 朝鮮の三国時代2 広開土王陵碑

建国神話と王家の系譜

 朝鮮古代史を研究するものにとって高句麗は魅力的な王朝である。広大な領土を有し、中国(隋・唐)など周辺の国々と堂々とわたりあった強大な国。しかし、高句麗史をつぶさに伝える史料が今日に伝わっていないのは残念でならない。こうした状況のなかで高句麗史を知るための一級資料が「広開土王陵碑」(以下陵碑)である。今回は広開土王とその陵碑についてみることにする。

遺勲をたたえる

広開土王陵碑

 陵碑は高句麗の19代王(「三国史記」による)にあたる広開土王の業績を称えるため、長寿王(広開土王の子)が414年に立てた石碑である。高さ約6メートル、平均幅1.5メートルの碑身には1770余字の漢文が整然と並んでいる。

 その内容は大きく三つにわけることができる。

 まずは始祖鄒牟王の誕生と建国神話、広開土王に至る王家の系譜、そして広開土王への讃辞と碑の建立目的である。陵碑の建国神話は現存するものの中では一番古く、始祖の鄒牟王が天帝の子であり、母は河伯の娘と神聖視されている。また難を逃れて扶餘から脱出する際、あしや亀の助けをうけて川を渡るくだりは、「三国史記」に伝わる高句麗建国神話とよく似ている。次に陵碑は広開土王時代の領土拡大過程を示している。とくに396年条では広開土王が、百済王の降伏を受け入れ、その弟や大臣、多数の人質を引き連れて凱旋したことを誇らしげに語っている。最後に碑文は王の陵墓を守る「守墓人」についての規定を刻んでいる。

 このように陵碑は5世紀頃の高句麗史を物語る一級資料なのである。

「太王」とその意味

太王の文字

 陵碑には「国崗上広開土境平安好太王」という広開土王の呼び名が刻まれている。この長い呼び名は王墓の築かれた場所と生前の王の業績、特徴からついたものとみてとれる。つまり「国崗上」とは「国(都)の高い岡の上」に陵墓を築き、「広開土境平安」は「国土を大きく広げ平安に」保った王という意味なのである。ちなみに広開土王以前の王の名にも川や原、林などの文字がみえるが、これも王墓の位置を現しているのである。

 一方で最後にみえる「太王(好太王)」にも留意が必要である。陵碑は広開土王を王より格上の太王(大王)と表記している。太王は中国の皇帝だけが制定していた「年号」をつくることのできる偉大な存在であった。これを裏付けるかのように碑文には「永楽」という高句麗の年号が確認される。また碑文には「百殘」「殘主」という文字もみえるが、これは高句麗と敵対していた百済とその王を見下した表現である。百済王を王より格下の「主」と表現していることは非常に興味深い。

 太王(大王)の称号は朝鮮三国時代のほかの国々ばかりでなく、古代日本でも使用されるのである。

 高句麗史研究の重要資料である陵碑の模型は当館に通じる通路の右手に展示されている。上記を参考にしながらご覧いただければとおもう。(河創国、朝鮮歴史博物館副館長)

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[朝鮮新報 2010.1.15]