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〈「韓国強制併合100年」に寄せて−中〉 問われ始めた植民地責任

 植民地支配をめぐる研究には近年大きな深化が見られた。たとえば補償を求める裁判闘争とも関連して、朝鮮人・中国人強制連行や日本軍性奴隷などの実態解明が進展した。また韓国強制併合の歴史的・国際法的再検討、さらに「植民地責任」論という新しい議論の枠組みにより、植民地支配を問う視角が多元化している。そこでは、植民地化、あるいは植民地体制下で起こった大量虐殺等の大規模暴力が、「戦争責任」論において深化・発展させられてきた「人道に対する罪」として扱われている。

■植民地責任、植民地犯罪

 従来戦争責任問題を考える場合、「戦争責任」と「戦争犯罪」という二つの問題を区分してきた。最近浮上している植民地責任問題もそれに即して「植民地責任」と「植民地犯罪」という二種の概念で論じられている。植民地責任とはある地域を植民地化し、政治支配を及ぼし続けることによって当該住民に甚大な被害と損失を与えたことに対する責任を意味する。それに対して、植民地犯罪とは植民地支配の過程で生じたさまざまな非人道的行為を意味する。

 前者は宗主国と植民地との関係全体から生じる責任を意味するため、その責任追及は現在の国際法の水準では困難が伴うため、道義的ないし政治的意味において、あるいは歴史的評価の問題として追及されると論じられている。しかし後者においては植民地住民に対する個別具体的な犯罪行為そのものを意味するため、一定の事実関係について問うことは可能であり、人道に対する罪のような、国際法上確立しつつある法的根拠に基づいて断罪し、その責任にふさわしい応答、例えば賠償金の支払い、犯罪者の処罰等を実現させることができる。

■植民地責任の次元

 植民地責任を問う場合、何を(誰を、どれを)断罪の対象とするのかという問題が提起されよう。ここでは旧植民地宗主国の責任、世界体制の責任、コラボレーター(協力者)の責任という三つの次元が考えられる。

 旧植民地宗主国の責任とは、言うまでもなく直接に植民地支配を行い被害と損害を与えた側が負っている責任のことである。

 次に、ここにいう世界体制の責任とは、過去500年ほど奴隷制と植民地支配の世界体制を構築してきた西欧諸国が負うべき責任のことである。16世紀以降、「文明」の名による「野蛮」の支配を自らの使命としてきた西欧の勢力は、奴隷貿易・奴隷制を推し進めてきたが、近代に入り、アヘン戦争を皮切りに東アジアへの侵略、戦争、支配を進めてきた。日本は明治以降、「文明開化」の名のもとに西欧を模倣・追随し、北海道、沖縄、台湾、朝鮮、中国大陸へと帝国の版図を広げてゆくなかで、甚大な被害を生みだした。日本の韓国強制併合は、西欧中心の世界体制の中で、日本がその矛盾と葛藤に便乗して自ら西欧中心部の中での周辺に位置しようとしたものであった。

 コラボレーターの責任とは、植民地支配の末端にいた民族内部の協力者の責任を言う。植民地支配は植民地地域内部からの協力者の出現を不可欠としている。朝鮮史の文脈では「親日派」といわれる人物群を指している。彼らは植民地期の朝鮮社会を分断させる役割を負っただけでなく、解放後は米軍の南朝鮮占領下で「親日派」から「親米派」へと姿を変え、民族の分断を助長させ、「内戦」を誘発させる役割を果たした。いわばコラボレーターの責任とは、植民地支配者による民族分断政策の結果生じた民族内部の責任といえる。

■植民地責任の主体と対象

 植民地責任を追及する主体はいうまでもなく、植民地支配の軛から脱して独立を勝ち取った旧植民地人民である。そして、責任が追及される対象は宗主国による植民地支配そのものでなければならない。

 では、植民地責任を負うのは誰なのであろうか。カール・ヤスパースの議論に即して考えてみる。彼は第二次世界大戦直後に、ドイツ人の罪として「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上的な罪」という「四つの罪」という概念を提示した。「道徳上の罪」と「形而上的な罪」は「自己の道徳的な無力と形而上的な脆さ」に対する「内からの非難」、すなわち加害者および加害国民自身による自己批判の対象である。

 しかし、「刑法上の罪」とは「明白な法律に違反する客観的に立証可能な行為において成立する」罪であり、その罪の結果として「処罰」される。また、「政治上の罪」とは、「国の行為によって生ずる結果を…その公民たる地位において」成立する罪であり、その罪に対して責任が問われるという。

 ヤスパースの議論は朝鮮植民地責任問題を考える場合に参考になる。「刑法上の罪」を負っているのは植民地支配という犯罪に関わった諸個人であり、彼らの命令者である日本政府(加害の最頂点にある日本の天皇と戦犯)ということになる。そして日本「国民」全体は植民地支配の実行という罪を負わない代わりに、「政治的な罪」を負うことになる。日本政府の植民地政策を許してしまった「国民」としての責任、また、植民地支配の実態に対する真相解明などを通じた脱植民地化を果たす責任があるはずである。しかし、日本「国民」は現在、「刑法上の罪」も「政治上の罪」も「清算」することができずにいる。(康成銀・朝鮮大学校図書館長)

[朝鮮新報 2010.7.21]