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〈「韓国強制併合100年」に寄せて−上〉 植民地責任・植民地犯罪を問う

 韓国強制併合100年を迎え、日本の市民団体や学界では、さまざまな企画や特集が組まれている。なかでも主要なテーマの一つに、植民地支配の問題が正面から取り上げられ、「植民地責任」や「植民地犯罪」という新しい概念が提唱されている。この小論では、@こうした課題を設定するようになった背景(世界の動き)、A学界で論じられている「植民地責任」「植民地犯罪」の論点、B朝鮮をめぐってのこれらの概念の三つの類型、について考えてみたい。

1、植民地責任追及の動き

■植民地の独立と非同盟運動

反人種主義・差別撤廃世界会議(2000年8月31日〜9月7日、南アフリカ・ダーバン)に向けて同年4月、ネパールのカトマンズで行われたアジア・太平洋地域のNGO会議

 第2次世界大戦と戦後の国際体制に見られる主な変化は、植民地の独立と国際社会における非同盟運動の台頭だといえよう。非同盟運動の源流は、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で採択された平和 10原則であった。それは、領土・主権の尊重、不可侵、内政不干渉、平和・互恵、平和共存の五大原則を基礎に反帝反植民地主義、世界平和確保への主体的参加、アジア・アフリカ諸国の連帯と協力を高らかに宣言した、世界史上、画期的な意義をもつ内容であった。このときから民族解放闘争は大きく前進し、とくに1960年は「アフリカの年」といわれるほどアフリカ諸地域で連続的に独立が達成された(17カ国)。

 また、国連でもアジア、アフリカ諸国が次第に大きな発言力を確保するようになった。その典型的な例が、60年の国連総会でアジア・アフリカ43カ国が共同で提案した「植民地独立付与宣言」であり、74年の国連総会でのパレスチナ問題の決議であった。61年第1回非同盟諸国首脳会議の参加国は25カ国にすぎなかったが、2009年現在では118カ国に達し、国連加盟国数の3分の2近い確固たる多数派を形成するようになった。

 しかし、植民地支配による被害を償うという問題は、戦後の法概念ではなかなか考えられることがなかった。植民地主義を断罪する法概念が国際社会に出てくるには20世紀末まで待たなければならなかった。

■「人道に対する罪」の出現

 第2次世界大戦後の国際軍事裁判(ニュルンベルク、東京)では、従来の「戦争犯罪」のほか、「平和に対する罪」「人道に対する罪」を含む新しい戦争犯罪概念を裁判所条例に加え、個人の責任を追及した。

 とくに「犯行地の国内法に違反すると否とを問わず、(中略)戦前もしくは戦時中に行われた、すべての民間人に対する殺人、絶滅、奴隷化、強制連行、その他の非人道的行為、または政治的、人種的、宗教的理由による迫害行為」を処罰の対象とする人道に対する罪は、占領地住民に対する戦時犯罪行為にとどまらず、ドイツ国民たるユダヤ人に対する迫害、それも戦争開始以前からすでに始められていた迫害をも裁くという点において、従来の国内法や「戦争犯罪」概念には収まらない対象をも射程に入れることになった。国際軍事裁判では、人道に対する罪は事後法の禁止(刑法不遡及の原則)に抵触するという、弁護人側の一般抗弁があったが、ナチスの犯罪が従来の法の常識を超えるものであったために、またナチス犯罪被害者(東欧諸国の亡命政府、ユダヤ人団体)の要求もあったために、事後的に「罪」が作り出されたのである。

 しかし、人道に対する罪の概念がナチス犯罪、とくにユダヤ人の犠牲を念頭において生み出されたものであったせいか、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判においてそれは実際にはほとんど適用されなかった。まして植民地を領有する戦争諸国が自国の植民地支配の歴史にこの概念をあてはめて考えることは問題外であった。「人道に対する罪」の概念がその成立の過程でいかに植民地主義的な作用があったのかということをこのことはよく示している。

 このような歴史的制約にもかかわらず、交戦国間の関係に限定されない「人道に対する罪」概念の成立は、それまで国家間の関係と認められないがために国際法上の「戦争」とみなされなかった「植民地戦争」や、植民地支配下の「平時」において生じたさまざまな暴力を、従来の「合法性」の枠から引きずり出すことを可能にした。ただし、そのような可能性を現実のものとするには、植民地の独立を経て、さらに長い時間が必要だった。

■「人道に対する罪」および「補償」の発展

 国連国際法委員会は軍事裁判で確認された法理を正式化する作業を展開する。そして、新たに発生する人道上の問題に対処するなかで、一連の人道法体系が形成されていった。「人道に対する罪」は人道法体系の中に取り込まれ、そこからジェノサイドが、人道に対する罪の中でも最も深刻な犯罪であることが認識され、人道に対する罪から独立して扱われるようになった(48年「ジェノサイド条約」)。70年代に入ると、アパルトヘイトという新たな犯罪も人道に対する罪を構成するものとして位置づけられた(73年「アパルトヘイト条約」)。そして54年・96年「人類の平和と安全に対する罪に関する法典草案」では、条文がより洗練され、時効についての条約(68年「戦争犯罪事項不適用条約」)も作成された。

 ジェノサイド条約ではジェノサイドを新たな国際犯罪として普遍的に処罰するために常設国際刑事裁判所を設置することが予定されていたが、主に大国の事情でその設置は延期された。そのため、90年代に発生した旧ユーゴ紛争とルワンダ内戦での集団殺害については一時的措置として、安保理に戦犯裁判所を設置して個別に対応せざるを得なかった。そのことをきっかけに、ようやく長年の懸案であった常設の国際刑事裁判所設置の必要性が本格的に認識されるようになり、98年7月に「常設国際刑事裁判所(ICC)設立条約(ローマ規程)」が採択され、02年7月に発効した。この条約は、人道に対する罪、ジェノサイドの罪、戦争犯罪、侵略の罪に対して詳細に規定しており、国家が裁判する意思や能力をもたない場合、「普遍的管轄権」によりこれを裁判することができる常設法廷を設置するという画期的なもので、国際人道法発展の現段階の到達点を示しているといえる。なお、ジェノサイド条約の草案、法典草案、ICC規程の草案には植民地支配の問題が含まれていたが、その後の外交会議でこの問題は除外されてしまったという経緯があったことを指摘しておこう。

 「人道に対する罪」概念の拡充・深化とともに、被害者個人に対する「補償」の概念が生み出され、その要求が次第に広がってきたことは、「植民地責任」の背景を考えるうえで重要な点である。当初はもっぱらユダヤ人被害者を対象としていた補償は、1980年代以降、ロマ(ジプシーの自称)や同性愛者、医学実験の犠牲者、占領地での強制労働に従事させられた者へと広がった。さらにアパルトヘイト時代の「重大な人権侵害」に対して補償を行った南アフリカ真実和解委員会の経験、90年代以降、世界各地で起こっているさまざまな「過去」清算のための訴訟運動(奴隷貿易・奴隷制、強制連行、性奴隷など)の状況は、ある研究者たちをして「証言の時代」「謝罪の時代」と言わしめるほどである。

■ダーバン会議

 2001年8月から9月にかけて南アフリカのダーバンで国連が主催する「第3回反人種主義・差別反対世界会議」(ダーバン会議)が開かれた。この会議には国連加盟国の170カ国政府代表団とパレスチナ、国連機関、国際機関、約950のNGO(非政府組織)など、合計8千人が参加し、人種差別の予防、撤廃などの議題について論議し政治宣言と行動計画を採択した。

 世界会議(本会議)に先んじて、前年度には世界の4地域で政府間準備会議が始まったが、アフリカ地域準備会議やアジア地域準備会議では、植民地支配やその他の形態の外国支配あるいは奴隷貿易の謝罪と補償を含む宣言を採択した。

 本会議では、過去の奴隷貿易と植民地支配の謝罪と補償をめぐって、旧植民地宗主国と旧植民地国との間で議論が紛糾した。採択された政府間会議の宣言では、奴隷貿易・奴隷制が「人道に対する罪」であることを明記する一方、「謝罪」については「心から遺憾の意を表する」という表現にとどまった。また、植民地支配がこんにちのアフリカの貧困の一因だったことを認め、欧州各国が「経済支援を講じる」必要性が明記されたものの、賠償責任そのものは盛り込まれなかった。

 しかし、NGOフォーラムの宣言では、「植民地主義は、国家のもつ国民主権のもっとも重大な侵害の一つであり、国際法違反であると断言し、ならびに、ほとんどすべての植民地領土において、重大な人道に対する罪が植民地宗主国によって犯された」と指摘した。

 両宣言によって、植民地主義を「人道に対する罪」とする可能性が開かれた。また植民地主義が今日の人種主義・人種差別の源泉となっているという認識も示された。世界会議は、いまや、奴隷貿易・奴隷制、植民地支配など人類史の「汚点」を大規模な国際会議で論議するまでに至ったことを示している。国際社会は植民地問題の清算のための新しい里程標に沿って新しい出発点に立つことができたといえよう。そして実際、ダーバン会議以後、植民地支配および人種主義・人種差別などの清算を求める声が今、世界各地で上がっている。(康成銀・朝鮮大学校図書館長)

[朝鮮新報 2010.7.14]