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〈訪朝記 静かなる柳の京を再訪して-上-〉 困難な時代に耐えて日朝の友好進めん胸に刻みて

 昨年10月26日から31日までの日程で日朝友好促進地方議員訪朝団が朝鮮を訪問した。

 東京・江戸川区の代表監査委員として同団メンバーの一員となり訪朝した小久保晴行氏は、「朝鮮の人びとが、毎日を真面目で真剣に人間的な生活をしていることだけは確めることができた」と訪朝期間を振り返る。

 日本や欧米のマスコミが朝鮮の現状を「大掛りな劇場都市」「お芝居国家」と無責任にも面白おかしく表現している点についても憂慮を示す。

平壌産院の新生児室(筆者撮影)

 一行の訪朝以降、朝鮮国内では、昨年11月30日から12月6日にかけていっせいに「通貨交換措置」が講じられ、外交では米朝の直接対話が行われるなど、めまぐるしい動きが伝えらた。同氏は「朝鮮の政治的な安定は東アジアの情勢にとっても極めて重要」だと述べる。

 「朝鮮と日本の国交正常化問題は、核、ミサイルや拉致問題などで現在最悪だが、両国間の悠久の歴史や諸文化や福祉についての友好交流促進を、もっと深めることがぜひとも必要だと痛感している」

 本紙編集部に寄せられた同氏の訪朝記を2回にわたって紹介する。

 機会があって朝鮮を再訪問した。私にとっては2006年夏以来、2回目の訪朝であった。現在、日本と朝鮮とは国交がないので、ロシアか中国などを経由しないと渡航できない。北京の朝鮮大使館領事部で長い時間待たされたあとで少しのトラブルもあって、北京で一泊したあと、無事にビザを受領した。翌朝、しばしの北京の晩秋の午前を楽しんでから、午後1時の北京空港発のJS(高麗航空)152便に乗った。午後4時、ロシア製ツボレフ機は2時間足らずで平壌に着いた。

 平壌空港は小泉訪朝のTVニュースなどで日本でもおなじみの空港である。飛行場は広大だが、周辺に飛行機はわれわれの乗って行った機以外には見当たらず、ターミナルの建物には金日成主席の笑顔の肖像画が掲げられていた。

 晴天の空港周辺は一面が紅葉で黄や朱に色づき美しかった。空港から都心までの、ほとんど車が走っていない高速道路の銀杏並木道の翳から民家の屋根がそこここに見え隠れしていた。轟音を立ててばく進しているような北京の騒がしさとはうって変わって、まさに「静かなる都」である。

 われわれを乗せた出迎えの車列は「柳の京」と呼ばれる平壌市の都心に入ると、そのまま金日成主席の巨大な銅像のある万寿台に直行して献花をした。外国からの来客を真っ先に案内するのがこの場所である。銅像に献花が終わると、そろそろ夕闇のせまった宿舎の高麗ホテルに到着したが、南北閣僚級会談が行われる時にも使用されるというホテル2階の会議室で、直ちに「朝・日友好親善協会」の会長であり、同時に朝鮮労働党外交部副部長でもある金泰鐘氏との会見に臨んだ。部屋の入口で出迎えてくださった金会長が握手しながら開口一番「小久保さんはこの代表団で最も年上の先生ですね」と言われて恐縮した。

 金会長は、朝鮮が現在国内で行っている重要な国策、工業建設や農業生産拡大などの「150日戦闘」や「100日戦闘」は重要な闘いであること、「強盛大国」を目指して人民が一丸となって国家建設をしていること、6.15共同宣言や10.4宣言などに基づいて朝鮮半島の民族統一に向かってまい進していることなど当面の「政治経済の現況」「韓国との統一問題」「対外政策、対米関係」について熱っぽく語った。

 とくに最近の「日本との関係」については、小泉元首相訪朝時の平壌宣言の精神にしたがって、過去の清算をし、日朝関係を改善しようとしている朝鮮の立場はいっさい変わっていないことや、日本の過去の歴史上の犯罪的な行為についても詳細に言及しながら、これまで日本政府当局が歴史をわい曲し、反朝鮮的な行動を繰り返していると強く非難した。さらに朝鮮人民の対日感情は日増しに悪化しつつあるとも強調した。

 そして金会長は「対日関係がとくに最悪のなか、わざわざ共和国をお訪ねいただいたことに心から敬意を表します」と結んだ。続いてホテル3階のレストランで会長主催の夕食会に招待され、朝鮮の焼酎とビールで乾杯をした。

閘門も医療施設も人民の自力更生を身近に感ずる

 快晴の翌朝、平壌の西南、55キロにある西海閘門の参観に出かけた。ここは、大同江を堰き止めて広大な土手を築き上げた大建設事業で、81年から5年間をかけて数万人の軍人と民間人が投入されて工事が行われた。閘門は大同江と朝鮮西海の接点の河口に位置していて、幅が8キロ、3つの閘門と36カ所の水門を持つ越流ダムなどがある。この大工事のおかげで黄海南道一帯の田畑と干拓地に灌漑用システムが確立して、大同江流域の農業は塩害がなくなり、大人造湖にはかん水魚、淡水魚、貝類が繁殖し群れをなしていた。各閘門は数万トン級の船舶の通過が可能で、また土手には鉄道と車道と歩道があり、対岸に渡るのに数十キロの近道になったという。土手の上の道路には大勢の人が徒歩や自転車で行きかっていた。

 続いて午後には平壌産院を訪れた。平壌市の中心部にある産科、婦人科専門の大病院で、敷地6万u、入院室、研究室、実習室、医師室、看護師室など大小2千室もあり、400人の医師が常時診察治療していて、入院から薬局までがいっさい無料という。

 市内の妊産婦および全国の三つ子などの健康管理と婦人科の診断、治療の指導を行なう以外にも内科、耳鼻科などの各種専門科を備えて、婦人の健康管理を総合的に行なう婦人総合病院、婦人科研究センターや、医療従事者養成の一大基地になっているとのことであった。同時にこの病院には10万冊の図書と閲覧室があり、科学写真制作室や臨床資料や科学研究資料を初めとした諸資料の分析、整理、保存をしているそうだ

 広大な病院内を親切に案内されたが、医師も看護師も皆真剣に仕事に取り組んでいる様子が伝わって来た。年間1万5千人の新生児が誕生していて、妊産婦のためのレントゲン科から、眼科、歯科などもすべてそろっていた。三つ子が生まれると特別室に収容され、平壌で生まれる市民の第一子は、ほとんどがこの産院で誕生するそうだ。元気な赤ん坊の声が聞こえて来たのでほっとした次第である。

 平壌産院の暗い廊下を案内されながら、私は朝鮮の詩人・金尚午(1917〜92年)の詩「入院日誌より『天使』」を思い浮かべていた。

 実は、この大詩人の孫である金銀鏡さんが、今回の訪朝中、私を終始案内してくれた「朝・日友好親善協会」の通訳だった。偶然とは言いながら非常に親近感を抱いた次第である。(小久保晴行、評論家、歌人、経営学博士)

[朝鮮新報 2010.2.3]