朝鮮大学校の高演義教授の講演 「歴史克服、在日状況、そして民族教育」 |
朝鮮学校の「高校無償化」問題を考える学習討論集会より 朝鮮学校の「高校無償化」問題を考える学習討論集会(8月3日、一橋大学)で行われた、朝鮮大学校の高演義教授の講演「歴史克服、在日状況、そして民族教育」の要旨を紹介する。
−歴史問題 欧州連合(EU)との比較上、東アジア共同体樹立問題が論じられる。そこには、歴史文化的に共通点の多いヨーロッパと違い、言語・宗教・文化が複雑多様なアジアでは共同体構築は難しいとの論調と、2度の世界大戦を経たヨーロッパより、アジアの場合はるかに運命的同質性が濃いため共同体は十分に可能だという2つの論調がある。 1970年12月、西独のウィリー・ブラント首相が旧敵対国ポーランドを訪れ、ワルシャワゲットー記念碑の前で突然ひざまずき加害の過去に対する国家的謝罪の意思を全世界に示した。これをヨーロッパを始め全世界が大歓迎した。歴史和解の最良のチャンスだと…。 一方、90年9月、朝鮮民主主義人民共和国は妙香山での金日成主席と金丸信元自民党副総裁との会談。日本の与党と野党を引き連れた金丸代表団の訪朝は、過去克服のための偉業との評価どころか、保守系のマスメディアなどによって「朝鮮に対する屈辱外交」=「土下座外交」と攻撃され、両国間に歴史的和解が生まれることはなかった。 ヨーロッパでは、過去の誤った出来事に対する加害国の首相の、率直で誠実な謝罪の姿勢が大いなる共感を呼び、それがEU実現に結びついたが、アジアにおいては、日本帝国主義のかつての犯罪についてある政治勢力が謝罪、清算、克服の努力をしようとするや、それを許さない、そんな「日本」が依然として存在する。東アジア平和共同体構築の障害であるこの歴史問題を必ず解かねばならないというのは、もはやあまりにも明白なことである。 01年、南アフリカ・ダーバンで開催された「人種主義、人種差別、外国人嫌悪、関連するすべての不寛容に反対する世界会議」(8・ 31〜9・7)を背景に、国際政治の舞台では一つの共通した動きが浮上してきた。かつて各時代ごとに支配主義勢力(帝国主義、植民地主義、人種主義など)が弱小民族を抑圧したことに対する謝罪発言が、いわゆる先進国の政治リーダーらの口から続々と出てきたのである。ダーバン会議では、歴史教科書問題、外国人登録制度、朝鮮学校、民族教育への差別といった日本政府の在日朝鮮人政策も取り上げられ、そこでは日本の差別主義、排他主義と非人道性に対する国際的な非難の十字砲火がおこったという。日本植民地主義が単に「過去」の犯罪であるにとどまらず、在日朝鮮人には持続的な「現在」の犯罪であることを国際社会は仮借なく糾弾したわけである。 歴史の前での贖罪精神、これこそが新時代の和解の道を切り開いていくのだと思う。 −文化の問題 明治以来の「和・漢・洋」重視の根づよい文化伝統もあり、日本ではとりわけ朝鮮の文化を無視してきた。朝鮮の側から見て、日本語、日本文化とはしばしば自分たちへの抑圧の道具だった。それでいて、被抑圧の側は(近代化において遅れを取ったがゆえに)自らを解き放つために、忌まわしき旧宗主国の言語・文化の回路を一度は通らなければならなかったのである。 このアンビバレントな文化状況にあって、朝・日間の真の民族的和解へ向け、半世紀以上にわたり完全な自力による歴史克服を試みてきたのが在日朝鮮人の民主主義的民族教育だ。植民地主義克服の努力が、加害者の日本政府でなく歴史の被害者である在日朝鮮人の側によって粘り強く行われてきたというのは、実に意味深長なことだと言わざるを得ない。 彼らは植民地主義が奪っていったもの(名前、言語、文化)を、加害者側が返してくれるのを待つのでなく自主的に回復し、ゆがめたもの(歴史=朝・日関係史)を正して、過去の支配−被支配という両民族の関係を、逆転させるのでなく対等平等の関係へと築きあげるべく、自らの民族教育を実施してきた。 日本政府からのいかなる補償補助もなしに自らの運命を自ら司るべく発展してきた朝鮮人学校は、現在朝鮮語のほかに日本語教育に力を入れており、旧宗主国言語の習得を通じての自己解放と民族和解の道を拓こうとしている。 このように、東アジアにおいて民族の言語、文化が互いに尊重しあい呼応しあう空間が広がっていくとき、この地域に真の異文化理解の共感帯が生まれ、やがては必ず、21世紀の新しい国際連帯が生まれることだろう。 文化の力を信じすべてをそれに基づいて展開するとき、東アジアには政治・経済・文化の整然たる三位一体の地域空間が必ず成立するだろう。 [朝鮮新報 2010.9.10] |