〈エッセイ 私と朝鮮新報〉 紙面を通して同胞と触れ合う |
記事に共感、力を得る
私と朝鮮新報の出会いは、幼少の頃に見た4コマ漫画「イプニ」からだった。かわいいイプニが大好きで単行本を夢中になって読んだものだ。 それから大学、教員時代と新報は「政治学習」のツールとなっていった。 「岩手の湘南」と呼ばれる大船渡に来て9年の歳月が過ぎた。幸いなことに嫁ぎ先でも新報を読んでいたので、学習の場が保てた。 大船渡はとても良い所だ。海の幸、山の幸に恵まれ気候も穏やかで過ごしやすい。難点を言うならば私の実家がある埼玉と違って、都会のにぎやかさはなく静かな町ということだろうか。 岩手での暮らし
岩手は同胞も少なく、ましてやこの大船渡にはほとんどいないと言っても過言ではない。9年もの間にいろんなことがあったけど、子どもを3人授かり、私が主催するハングル講座がまもなく5周年を迎えるということは特記すべき出来事だろう。
実家の埼玉から大船渡に嫁いで環境の変化、ギャップにとまどいを感じ、誰も知っている人がいない生活の中では孤独すら感じた。そんな中、日本での韓流ブームの波に乗って、近所の日本人の要望によりハングル講座を開講、細々と教えている内に受講生も着実に増えていった。そればかりか去年からこんな小さな田舎町で「ハングル検定」も行えるようになった。 私の孤独に感じられた毎日が徐々ににぎやかになっていった。ありがたいことに昔からストックしていた新報の「ウリマル教室」の切り抜きが本当に役に立ったし、教室の最中に受講生が思わぬ質問を投げてきても新報がいろんな場面で役に立った。新報は、「ウリマル環境」がないこの地で、自分のスキルアップにはもってこいの教科書でもある。 大船渡生活の中で子どもが成長するにつれて大きな問題に直面した。それは「学校」だった。 幼稚園から大学まで民族教育を受けてきた私にとって、日本学校に子どもを送るという選択は考えられなかった。でも、ウリハッキョに子どもを送るのは難しい環境でもある。苦渋の選択だった。「日本学校に留学させたと思おうよ…」。同じ環境下にいた友人の言葉が私の心を軽くした。 子どもたちに私がウリマルを教えると同時に、「ウリ」を教える決心をした。 娘は入学式にチョゴリで出席して本名で通っている。地元新聞でも取り上げられ、ちょっとした有名人にもなった。 「ナルゲ」で学ぶ タイミングよく朝大生によるインターネット授業の「ナルゲ」のおかげで、娘にとって「ウリマル」がより近い存在になっている。 娘なりに、日本人がウリマルを習うのと自分が習うのはその意味が違うということをちゃんと理解している。オッパ、オンニたちが親身になって楽しく授業をしてくれるので、毎週「ナルゲ」の時間が楽しみで仕方ない。本当にありがたい。 私ははたから見れば同胞もいない小さな町で寂しく暮らしていると見られるのかもしれない。けれど幸いにも家族の支援によって、やんちゃ盛りの1歳の末っ子がいても夜の講座の時は心置きなく授業ができる。 受講生もみんな「ソンセンニム」と慕ってくれる。遠く離れた友人が私を応援してくれる。同胞のいない環境で自分自身で開拓した道は、人とのつながりにより大きく広くなっている。人と人とのつながりがこんなにも温かく強いものだとあらためて思わせてくれたので、「寂しい」なんて感じている暇がない。 でもやっぱり、大きな都市で催される子どもたちのための集いに参加できないのは本当に悔しい。よく耳にするインターネットによるコミュニティーサイトに参加することによってたくさんの同世代のオンマたちとのコミュニケーションが取れるかもしれない。 でも私は何事も前向きに捉えて、新報を通じて、例えばコラム「それぞれの四季」を読みながら共感したり感心したりしながら筆者と心通わせている気持ちになる。 知っている人を見つけた時に頑張っているその姿を通じて力を得る。大好きな詩人、作家の作品を通じて文学の世界に浸る…。紙面を通じていろんなコミュニティーに参加できる。 紙面を通じて日本各地とウリナラを見、今なお一貫した内容で私に学習の場を与えてくれる新報は「師匠」でもある。 今、私は、私の「イプニ」を育てるという大事な役目を担っている。 自分を見つめなおし、自分をしっかり保つためにも新報は欠かせない存在である。時代と共に変わっていく紙面により親近感を感じつつも、あるべき姿の朝鮮新報に大きな期待を寄せる。(金秀和、岩手県在住、ハングル講師) [朝鮮新報 2010.8.21] |