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つねに子どもに寄り添って 西東京朝鮮第2初級学校の思い出

 春になると思い出すのは西東京朝鮮第2初級学校(「第2」)の校庭の桜だ。喜びと懐かしさと寂しさがないまぜになった感情が、不意にあふれ出す。

 まだ「第2」に中級部があった頃、わが家の子どもたち2人がこの学校を卒業した。娘は中級部最後の卒業生となった。往復4時間かかる遠距離通学であった。

 3月、子どもたちを伴って学校を訪れたときのことが今でも忘れられない。

2008年の入学式の様子

 運動場でサッカーをしていた中級部の男の子たちが校門を入った私たちを目ざとく見つけると、驚いたことに一目散に目の前まで走り寄り大きな声であいさつしたのだった。

 廊下で見かけた若い男性教員は、低学年の子どもたちに取り囲まれ、抱きつかれたり、よじ登られたりしていた。これは、この後もごく自然に繰り広げられていた幸せな光景だった。

 朝早く学校へ子どもを送っていくと、驚いたことにいつも校長と若い男性教員が掃除をしていた。娘に聞くと、校長先生は授業以外で学校にいる間、掃除をしているか、他の教員の授業を見ているか、歌いながら廊下を歩いてるよ、と言うのでまた驚いた。

 教員たちは日常的に自ら子どもたちにあいさつをしていた。「あいさつをしなさい」というのではなく、にこやかに、大きな声で、まず子どもたちに声をかけるのだ。

 ささいなことのように思えるが、掃除にしろあいさつにしろ、毎日のことなのでごまかしがきかない。教員が子どもたちの模範となっているのか、どう向き合っているのかがわかる、重要な事柄である。教員と生徒の間に信頼関係があってこそ、あいさつは大人に対する敬意とともに、「今日あなたに会えてうれしい」という感情の発露になるのだ。

 学校全体が和気あいあいとした雰囲気なのである。授業内容も個々の教員の工夫と努力が見て取れるものだった。

 40人学級でも1人学級でも授業の準備のための教員の労力はそう変わらない。当時息子のクラスは11人、娘のクラスは6人という少人数だった。体育などは複合授業を余儀なくされ、知恵を絞らなければならない局面が多々あったと思える。暇さえあればハンドボールをさせるのではなく、中学の体育の課程をきちっと順守していた。

 卒業時には、子どもの身体的成長と基礎体力の測定結果とともに、3年間を振り返って評価する点とこれからの課題が書かれたレポートが教員の手書きで届けられた。

 理科の授業では、3年間ほぼ毎時間実験が実施された。地層の教材に、5色の「地層ゼリー」を教員自らが自宅で作り、授業後全員で食べたという。子どもには一生忘れられない授業になったことだろう。わが家では今も何か理科の分野でわからないことがあると、「○○○(理科の先生のあだ名)に聞いてみよう」というのが合言葉である。

 子どもの好奇心に答えるのは面倒くさく、手間がかかる。好奇心旺盛な娘は授業内容とは関係のない質問をよくして教員を困らせたようだが、必ず答えてくれたという。

 数学が苦手だった娘は、中学に上がりとても丁寧に教えてくれる数学教員との出会いによって、卒業する頃には数学が大好きになっていた。

 校長自らも2教科を担当し、楽しく、丁寧な授業をしていたと聞く。授業内容を書き連ねるときりがなく、全教科誠実に丁寧に教えてくれたというほかない。

 学校生活において一番長い時間を占め、何よりも大切な授業が誠実に行われていることに、親としては緊張したものである。学ぶ姿勢やマナーは家庭教育の領域であるのだから、親もその義務をきちんと果たさなければといつも思った。

 小さな心配りと努力を毎日続けていくことは、思いのほか簡単ではない。授業がない日は校内口演大会、作文創作コンテスト、「今年の学芸会の合唱曲のための作詞大会」など多様な教育的プログラムを用意、子どもたちを午前11時には帰してしまうなどということは一度もなかった。教員は事前準備に追われて大変だったはずだ。

 もちろん、まったく問題がなかったわけではない。子ども同士のトラブルが中級部、初級部関係なく起きたりもした。

 しかし重要なことは、その時々に教員たちがどう対処したのかということである。相談や抗議などいろいろな局面で、どんなささいなことに対しても、校長以下教員たちが問題から目をそらすことはなかったように思う。とくに校長の立場は一貫しており、子どものためになるのかどうかという、その一点にいつも絞られていた。

 つねに子どもに寄り添う学校だった。

 わが校の口演大会出演者の発表中にもかかわらず笑った他校生に対して、後日学校として正式に抗議したこともあった。

 よくあることだなどと見過ごさず、子どもの心に寄り添い、その現場で心底腹を立てていた複数の教員たちの姿は、応援に来ていた他の生徒たちの心にも焼き付いたことだろう。先生は私たち全員を本気で思っている、と。

 こうして思い出を書き連ねていくと、学校として当然しなければならないことをごく自然に行っていたのだということに気づかされる。

 だが、その「当然しなければならない」ささいで地味なことがもっとも重要で、だが目に見えにくく、評価されづらい。だから困難でもあるのだ。

 わが家の子どもたちもこの学校に守られてきた。人間に対する信頼を育む機会を得た。今はまだ理解できずとも、大人になり中級部の頃を思い出し、どんなに大事にされたのかをしみじみと思いだすときが来るだろう。

 そのとき、この素晴らしい学校の中級部が復活していれば、どんなに良いだろうかと心から思う。(朴c愛・元西東京朝鮮第2初級学校保護者)

[朝鮮新報 2010.6.11]