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遺骨

 先日ハラボジが亡くなり、生まれてはじめて遺骨と対面した。これがハラボジか…。ほんのさっきまで今までの姿だったハラボジが遺骨になった姿はとても不思議だった。小さな遺骨を見ながら、身寄りもなく一人日本に渡って来てから、散々苦労してきたことが思いやられた。これがまさにハラボジなのだと思うと、骨壷に拾い上げられなかった粉骨までも至極尊いものと感じられた。

 目に見える肉体のみではなく、遺骨も本人そのものなのだということを恥ずかしながら初めてわかった。

 2004年東京の祐天寺で行われた「北南合同追悼会」で、南から訪れた遺族が同寺に安置されている遺骨と対面し、「アボジ、アボジ」と泣いていた場面に立ち会ったことがある。

 実際に骨壷の中に入っていたのは合葬された遺骨で、ほかの遺族のものはとても「遺骨」と言えるようなものではなく紙屑のようだった。それでも、「この遺骨が私のアボジの遺骨でなくても同じ思いをしているどこかの同胞のアボジだ」と、また泣いていた。その時の遺族の気持ち、「遺骨にも尊厳があり人格がある」という大学の先生の言葉が今ならすっと胸に落ちる気がする。

 異国に無残に放置されたままの朝鮮人の遺骨、家族がどこで死んだのか、生きているのかもわからない、残された家族の気持ちはどれほどのものだろう。

 昨年、オーストラリア政府が先住民族に公式謝罪をしたように、遺骨の調査と遺族への謝罪と返還は、たとえいくら年月がたっても必ず果たされなければならないと強く思った。(姜潤華、団体職員)

[朝鮮新報 2009.4.3]