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春・夏・秋・冬

 先日、母親が広島で被爆し、長い闘病生活の末に亡くなったというある大学の日本人教授が、米国の大学で教鞭を執っていたときの体験を語っていた。愛する肉親を原爆によって亡くした体験から、一貫して核廃絶を授業に織り込み、広島の惨禍を二度とこの地球上に再現させてはならないと訴えてきた。ところが米国の学生たちの反応は違ったという

▼核武装は、国の安全と平和を守るために当然の行為であるというのが圧倒的な反応だった。そこには核廃絶だとか、非核という志向が入り込む余地はまったくない。驚いてしまったという

▼米国の学校で核についてどういう教育が行われているのか、詳しくは知らないが、核超大国・米国の正当性が堂々と教えられているのではないか、その一端が前述の大学教授の指摘から窺える

▼そういえば、米国の朝鮮に対する「完全かつ検証可能で後戻りできない核廃棄」という途方もない要求は、自らも核兵器を廃棄し非核国家を目指すから、それに倣えというものではない。核超大国・米国にとって、朝鮮の核武装は脅威であるという徹頭徹尾、軍事的論理から出たものである。かりに朝鮮が核廃棄をしたとして、米国も核廃棄するのか――それに対する明確な返答はない

▼それにしても、自国の青少年たちには核兵器武装の正当性を教え込みながら、一方でその恒常的な脅威から国の自主権を守るための、止むに止まれぬ核武装は認めないという米国の思考は破たんしている。それに被爆国・日本当局が追随しているのだから、これはまさに茶番であろう。(彦)

[朝鮮新報 2009.11.6]