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朝鮮野球の草創期にかかわって 鄭原徳・在日本朝鮮人野球協会顧問

 今から19年前の1990年8月、カナダのエドモントンで開かれた国際野球連盟総会で、朝鮮民主主義人民共和国は国際野球連盟(IBA)に加盟し、同年12月にアジア野球連盟に加盟した。

 この総会に、朝鮮の代表とともに出席した。加盟が決まった瞬間、「本当によかった。今後、朝鮮の野球は世界に向かって大きく羽ばたくだろう」と、感慨にふけったことを昨日のように思い起こす。

 その年の12月には、国際野球連盟のボブ・スミス会長と日本野球連盟の故山本英一郎会長代行に同行して平壌を訪れ、国際社会の仲間入りした朝鮮野球との橋渡し役を果たした。そのとき、山本さんが「第二次世界大戦後に野球人として訪朝したのは私たちが最初だ」と自負されていたのを懐かしく思い出す。

日本野球連盟の故山本英一朗会長代行(右)とともに(98年)

 朝鮮の野球事情については日本であまり知られていないが、スタートしたのは86年からだ。この草創期から私は、在日本朝鮮人野球協会会長として手伝ってきた。87年にチームを率いて祖国を訪問し練習試合を行ったが、そのときはやっと野球チームらしい形を整え始めた頃で、スコアなど論外であった。

 ところが、88年に訪れたときは、すっかり様子が変わっていた。このときには機関車チームはじめ5チームができて、全国大会も開催されていた。私たち在日チームは甲子園や大学野球経験者らをそろえ、必ず優勝するという気迫で大会に臨んだが、結果は意に反して2位に甘んじた。

 聞けば、野球王国キューバからコーチを招いて練習に励んだという。さらに選抜チームをキューバに遠征させ、実力が格段にアップしていた。なかには、145キロのスピードで投げる投手までいた。それにしても、2年という短い期間でよくここまで強化したものだと驚嘆したものだった。

 朝鮮は、国際野球連盟加盟後、10の大学に野球部を新設、観客4千人収容の野球スタジアムの建設計画も決めた。

 91年6月には、新潟で行われた環日本海国際親善野球大会に初参加し、躍動する姿を世界に披露した。初めての国際舞台というプレッシャーもあってか、成績は一勝三敗と振るわなかったが、最後まで全力を尽くすプレーに観客からは惜しみない声援が送られた。

 故山本会長代行が「朝鮮の選手たちは動きが機敏で、闘争心も旺盛。民族性からいっても野球に適していると思う」と語っておられた姿が今も目に焼きついている。

 この間、祖国の選手たちにユニフォームを贈り、海外への遠征費用、野球道具、スタジアムの建設などできうるだけの支援を行ってきた。

 素質もあり、すべての面で努力を惜しまない朝鮮の選手たちの姿を見ていると、応援できて本当によかったと心から思っている。(聞き手=朴日粉記者)

[朝鮮新報 2009.11.11]