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新潟県東山油田の朝鮮人強制連行の跡をたどる 西楽寺元住職・春日順一師の証言

3歳の私に、差別の心 植えつけた戦争の狂気

春日順一師

 新潟県のほぼ中央に位置する長岡市乙吉町。秋の収穫を終え、赤や黄色の木々の葉が目に痛いほどに輝くのどかな農村である。かつてこの地を通った源義家が「越後とは鬼すむ里と思ひしに都に近き人心かな」と謳ったと言われるほど、人に対する優しさを大事にしてきた風土が根づいている…そんなおだやかな農村でもある。そのおだやかな心をはぐくんできた人たちが、心の拠り所にしてきたのが村々に点在するお寺であった。お寺は文化や情報の発信基地であり、また心静かにお経を唱えたり仏像と向かい合うことで、自己のこころと向き合い、おのれのこころのありようを自問自答しながら見つめ続ける場でもあった。

 しかし、明治以降の富国強兵の時代にあっては、天皇を唯一絶対のものとする思想的統制のために、村人たちの心の拠り所であった寺社は、その存在をねじ曲げられ、戦時体制の中に組み入れられていく。

 そのことに深い悲しみと自省の念と、そして鋭い怒りに今もこだわり続けているある僧侶を訪ねた。

 浄土真宗大谷派西楽寺の元住職春日順一師。1942年生まれの同師は、まだ幼かった3歳の心に刻みつけられたある記憶が、今の私の原点にあるとおっしゃる。

西楽寺と、強制連行された人たちが一日の労働を終え、体を洗った川

 3歳の記憶…。同寺は敗戦を迎える昭和20年(1945年)、東山油田へ強制連行された50人ほどの朝鮮人の宿舎として使われていた。

 「作業を終え、寺の前を流れる川で体を洗う彼らに、私は石を投げました。3歳の私に差別の心を植えつけた戦争の狂気、それゆえにやはり戦争は繰り返してはならない」とおっしゃる。

 そんな想いを込めて戦後50年目の節目の年に、この寺で目撃したことをマスコミに発表したそうだが、その結果予想外の嫌がらせがあったとのこと。とくに強制連行という表現について、あれは徴用≠ナあって、強制連行ではないという意見がしつこく寄せられたそうだ。しかし、強制連行と表現しようが、徴用と表現しようが、師は言葉にはこだわってはいないという。事実は一つであり、その事実について、どう表現しようが事実を書き換えることはできないからだ。その事実とは、師が幼くして目撃した事実であり、異様な体験そのものであった。

 私が訪ねた日、師は私を本堂に案内してくださったが、そこで一本の樫の木の木刀を見せていただいた。「これは寺の宝として、大事に後世まで残してほしい」と母から受けついだものだという。師もこの木刀にはおぞましい記憶があったそうだ。ある日寺の柱にくくりつけられた朝鮮人を、監督の軍人が異常な真剣さでこの木刀で殴りつけていた光景である。鬼気迫るほどの異常さゆえ、この記憶はしっかり今も残っているという。

体罰に使われた樫の木刀

 敗戦時、あわてて寺を去った軍人が処分し忘れていった木刀が、なぜ寺の宝として後世に残すのかについての問いに、師は「物理的な木刀には何も価値はありません。しかしこの木刀が象徴しているもの…それは人を差別した過去の事実であり、ひいては人間を狂気に追いやる戦争の非人間さ、愚かさ、またそれを受け入れてしまった私を含めて慚愧の心をいつまでもわれわれは忘れてはならないということを、この固い樫の棒が語っているからです」。

 およそ100人ほどの強制連行された方がいたという乙吉地区。戦後60数年を経てもなお、そのことの意味を問い続ける師の心の痛みは、こころ優しい乙吉地区の人々の共通の痛みなのかもしれない。(しまくらまさし、写真家)

[朝鮮新報 2009.12.11]