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〈朝大 朝鮮歴史博物館-4-〉 朝鮮の三国時代1 高句麗の王都

「高句麗」の由来をひも解く

 高句麗、百済、新羅、伽倻は朝鮮の三国時代をになった国々である。ここでいう伽倻とは小国群の総称であり一つの国ではない。歴史上「三国」だけになるのは、大伽倻(慶尚北道高霊地方にあった小国)が新羅に統合された562年より後のことである。

 今回からは三国時代の展示物についてみていくが、まずは当館が誇る高句麗の展示物を紹介していこう。

名前の語源

安鶴宮の模型

 高句麗(紀元前277年〜紀元668年)は三国のなかで最初に興った国である。建国者は高朱蒙。朱蒙とは扶餘の言葉で善射(弓を善く射る)の意味をもち、鄒牟、中牟などの異伝がある。

 さて読者の中には高句麗の語源について考えた方はいるだろうか。これについての諸説を簡単に紹介してみよう。まずは高氏、つまり高朱蒙が建てた句麗という意味ととるもの。高句麗建国の地、卒本(現中国桓仁地方)には句麗という国がすでにあって、それを朱蒙が引き継いだとみるのである。これは朝鮮学界の定説となっている。

 次に高い城を意味するというもの。「三国志」という中国の歴史書には高句麗について書かれた部分がある。ここに「溝漊とは高句麗の城のことをいう」というくだりがあり、これによって高い城ともとれるのである。ほかにも高句麗とは貊族(=古代朝鮮の種族名)の意であるという説もある。結論を出すのは容易ではないが、次に高句麗の語源ともいわれる城にかかわる展示物を紹介しよう。

大防衛システム

大城山城の模型

大城山城の城壁(筆者提供)

 高句麗の都は卒本にはじまり、国内城(現中国集安)をへて平壌に遷っていく。都は平地にある王の居城(王宮)と、その背後にある逃げ城としての山城をセットにしていた。王は普段、平地にある王宮に住んでいたが、敵の攻撃に遭うと山城に逃げ込み「ろう城」するのである。民衆は王宮の前に広がる平野に居を構え、有事には王と共に山城へ逃げ込む。このような王都の構造は、卒本や国内城といった高句麗の都に共通するのである。

 当館には5世紀の平壌に築かれた安鶴宮と大城山城の模型が展示されている。安鶴宮は大同江に面した平野に築かれた王宮である。ひし形をした土塁に囲まれたこの城は一辺の長さが622メートルにもなる。土塁の中には5つに区分けされた建築群がある。建築群は王が外交や政治に利用する建物、王、そして王子や王女の居所にそれぞれ当てられていた。

 安鶴宮の裏手にあるのが大城山城である。大城山の稜線にしたがい7キロにもおよぶ石垣が延々と廻っている。敵の攻撃の的になりやすい谷間には城門を二重に築いたり、城壁に張り付いた敵を射るための工夫もみてとれる。城内には水や食料、武器などを蓄える池や建物も確認できるが、これは長期ろう城のためにわざわざつくったものである。来館の際にはつぶさに観察してほしい。

 このような山地を利用した王都の建設は、百済や新羅、後世の渤海にも引き継がれ、さらには大宰府(福岡県太宰府市)後方に築かれた大野城など、古代の日本でも確認されるのである。(河創国、朝鮮歴史博物館 副館長)

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[朝鮮新報 2009.12.11]