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東京・荒川区の玄正善さん 15年かけ、750ページ「ウリ植物名の由来」U、V巻出版

次世代への惜しみない愛情

盛況だった出版を祝う会(11月27日、東京・荒川区のホテルで)

 11月27日、東京・日暮里のホテルで開かれた玄正善さん(82)の新著「ウリ植物名の由来」U、V巻の出版を祝う会では、梁守政・総聯中央副議長があいさつし、長年にわたる研究を称えるとともに、「高齢にもかかわらず、あくなき研究心を持ち、若々しい精神で専門書を刊行したことは、われわれ在日同胞の誇りである」と述べた。また、梁玉出教育局長も、玄さんの長年の労苦をねぎらいながら、いつも朝鮮学校の生徒たちに著書を贈り、次世代に惜しみない愛情を注いでくれていることに謝意を述べ、お祝いの歌を披露した。

 今回出版された2巻とも前著同様、植物の学術名が、朝鮮語、中国語、英語、日本語名で表記された後、それぞれの特性と由来が豊富な資料を駆使してていねいに記されている。例えば、「ボケ」の花。北では(명자꽃)、南では(명자나무)と呼ばれ、語源は漢字の榠(명사)であり、それが漢語から朝鮮語に転訛したものと推測される。この花の日本の語源は中国名の木瓜「ボクカ、モクカ、モッカ」が転訛したもの。また、この植物の属名は、ラテン語Chaino(開く)+meles(りんご)=ひび割れたりんごの意。すなわち(ボケの花が)熟したりんごの実が割れて開いた姿に似ているところから付けられた名であると明らかにされている。

 「植物の由来」といっても、古今東西の文化、古典に対する深い造詣と、サンスクリット語にまで遡り語源や由来を明らかにしている魅力的な読み物なのである。それぞれの植物の説明には、はるか昔の古代インドから朝鮮半島、日本にいたる深い交流の足跡が綴られている。また、朝鮮語がわからなくても、それぞれ添付されたカラー写真と日本語、漢字、英語を読めれば、植物の名が分かるので、読者層は多国籍にわたっている。

 玄さんは、解放前、済州島の農業学校に通っていた。故郷への愛着は、そこで咲いていた草花の記憶に結びつく。「恩師の崔先生は、島中の植物に詳しかった。知らないうちに影響を受けたかも。私たちの世代には故郷とは、そこの人々、そこの風物そのもの。しかし、日本で生まれた世代には難しい。彼らに植物への興味を持ってもらうには、朝鮮語からも日本語からもアプローチできる書物が必要だと思った」。

 柔和な表情で語る玄さんだが、その半生は波乱に満ちている。1927年、済州島済州郡朝天面で生まれ、17歳で解放を迎えた。済州農業学校2年生の多感な青春時代。

 「ただ勉強しているわけにはいかない」。学生も果敢な反米闘争に立ち上がった。そんな中、玄さんも学友たちと反米ビラを配っていて検挙され、済州警察署に15日間拘留された。

 情勢が激化し、命の危険を感じた玄さんは47年7月、ひそかに島を脱出し、大阪に逃れた。学友13人も日本へ逃れたが、現在も存命なのは、玄さんただ一人だという。48年4.3人民蜂起では、玄さんの家族、親せき、友人たちの多くも犠牲になった。

 50年、大阪から東京・荒川区三河島に移った。「李升基博士にあこがれていた」玄さんは翌年苦学して、日本大学に入り、応用化学を学んだ。その後、プラスチック業、金融業、遊技業などを営み、順風満帆な暮らしが続いた。そんな中でハタと思い出したのが、昔、故郷で触れた植物のこと。そして、その記憶を次の世代に伝えていく責務がある、という思いだった。

 前書の刊行から約2年。その間、病にも悩まされたが、「何が何でも続編を出したい」という燃えるような思いが消えることはなかった。北と南のあらゆる植物辞典、資料を集め、分析、整理するのはもちろん、直接、済州島やソウルの植物専門家に疑問点を正したりもした。しかし、朝鮮籍を守り続ける玄さんに南の専門家からの反応は鈍かったという。「朝鮮籍を守るのは、カラスの勝手。異国で暮らしても、祖国の草木を忘れず、愛し続ける心がなぜわからないのか」と憤る。

 原稿、校正、出版、発送まですべて自力。そのぼう大な作業を東京・荒川商工会の梁明圓相談役らがが手伝ってくれたことに感謝する玄さん。

 日本の植物研究者や同胞愛好家からも多くの手紙が寄せられ、「こんなに植物愛好家が多いのか」とあらためて気づかされたという。

 玄さんは「今回、どうしても解明できなかった植物の由来があり、残念な気持ちもある。積み残した研究については、ウリハッキョの生徒たちの中から植物学者が育ち、引き継いでくれるものと信じている」と笑顔で語った。(朴日粉記者)

「ウリ植物名の由来」U、V巻(問い合わせは東京朝鮮第1初中級学校教育会まで)

[朝鮮新報 2009.12.7]