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田英夫さんを悼む 遺志受け継ぎ非戦の日本を

 元参議院議員の田英夫さんが11月13日に亡くなっていたというニュースが17日夜流れた。私が共同通信に入社しようと思った理由の一つが、「田英夫さんがいた進歩的な報道機関」だったことだ。私が共同へ入社した年の秋に出版された「真実とはなにか −わが体験的ジャーナリズム論」(社会思想社、1972)は、今も私の教科書だ。

 この本の「第1章 なぜジャーナリストを志したか」の冒頭に、同志社大学新聞学専攻(現メディア学科)教授の鶴見俊輔氏から頼まれて講演した時のエピソードが書かれている。その講演会で司会をした元毎日新聞記者の城戸又一教授が次のように田氏を紹介したという。

ありし日の田さん

 「田さんはジャーナリストである。私はジャーナリストと、ただ単にマスコミで働く人を区別して考えている。つまり、ジャーナリストは権力に対して批判するものであり、マスコミとは単に情報を流すものである」

 田さんはこの定義に賛同し、「マスコミ界に、情報を右から左に流すだけの、いわゆるマスコミ屋さん≠ェ多く、真の意味のジャーナリストが少ない」「いまこそ、より多くのジャーナリストが必要な時である」と記している。

 田さんは学徒出陣・海軍特攻隊の生き残りとして、「権力というものの、とんでもない正体を目の当たりに見て」(同書)、共同通信記者になった。下山事件、菅生事件などを追った。社会部長、文化部長から、TBSのニュース番組「ニュースコープ」の初代キャスターに転進。当時の北ベトナムに入り、米軍から爆撃される住民の側からリポートした。米大使館や自民党からの不当な圧力でキャスターを降板。その後、社会党から請われて参議院議員選挙に立候補、全国区でトップ当選を果たした。

 私が社会部記者だったころ、よく虎ノ門の本社編集局をふらりと訪れ、懇談していた。その後も、共同通信OBGの会合や、取材先で何度かお会いしたことがある。私の犯罪報道の改革を目指した闘いを支援してくれた。記者クラブ廃止論者でもあった。

 共同通信労組委員長も務めた。マスコミ界で、共産党員の記者が大量解雇されたレッドパージに反対する闘争で、会社幹部に睨まれて、静岡支局に2年半飛ばされた。大学卒記者には地方勤務がなかった時代だ。レッドパージで共同を追われたSさんらのことをずっと気にかけていた。インドネシアに移ったSさんは、スハルト軍事クーデターでインドネシア共産党(PKI)が壊滅状態になり、北京に避難した。Sさんの長女が北京大学を卒業後、共同通信に入り、外信部記者になったことを喜んでいた。

 まだ日中間に国交のない時代に「中共」と呼ばれていた中国との国交正常化に尽力し、日朝国交正常化にも取り組んだ。1959年に朝鮮への帰国事業を新潟で取材した際、後に朝鮮側の日朝会談の第一回目の団長になった労働新聞記者の故田仁徹氏と出会い、名字が同じだったことから「田田会談」と言われ、 93年に仁徹氏が亡くなるまで親交が続いた。

 新政権が友愛に基づく「東アジア共同体」を提唱する時代になって、田さんに日朝関係の改善をどう構想しているか聞けなかったのが残念だ。

 今という時代にも本物のジャーナリストが求められている。田さんから教えられたことを忘れず、進んでいきたい。(浅野健一 同志社大学教授)

[朝鮮新報 2009.11.27]