top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮と日本の詩人-111-〉 荒川洋治

朝鮮軽視の風潮を批判

 かつての朝鮮史・朝鮮語講師の寿命はみじかい
 二〇代でびょうきを知り
 三〇代で理由もなく 紫檀を売る人もいた
 どこかの会社の常夜灯からも遠い
 たとえば奉職先の富山大学朝鮮語朝鮮文学コースの
長い臨時階段を降りきると
近くの女性に ひとこえをかけ
 早くに死んでいった
 梶井陟六一歳、梶村秀樹五四歳
 当時誰も興味をもたないものを
 廊下のようなところで つづけたのだ
 でも印刷機のそばで
 椅子にもすわらずに
 ある人が立っていた
 きみを知らない
 相手は立っていた
 (中略)
 朝鮮語講座には
 廊下にも 人がいない
 まんぞくな朝鮮語の辞書もない
 (以下略)

 この詩は「葡萄と皮」と題されて、いくつかのテーマの詩を並列した長詩全9連130行からの抜粋である。題名は、生活の糧にもならないような、朝鮮語・文学、そして朝鮮史の研究で、戦後に先駆的な役割を果した二人の日本人へのレクレイムを意味しているといえよう。「常夜灯」よりもうす暗いような、そして「廊下のようなところ」で、「まんぞくな朝鮮語の辞書もない」劣悪な条件のもとで、わずかな聴講生に講義するのが普通であった異常を、詩人は記録に残すことにつとめた。寂しさがトーンになっていて、朝鮮軽視の風潮が批判されている。梶井陟は1950年に、当局の弾圧で東京朝鮮中高級学校が一時「都立」に移管された当時に同校の教諭を務め、その後富山大学人文学部の教授となり共和国の文学の紹介に尽力した。梶村秀樹は「皇国史観」にもとづくわい曲された朝鮮史を正し、日帝の植民地支配論難の観点から在日朝鮮人の受難史にも光りをあてる仕事に生涯をかけた。

 荒川洋治は1949年に福井県で生まれ早大文学部在学中から詩を書き、75年に詩集「水駅」でH氏賞を、97年に詩集「渡世」で高見順賞を受賞した。01年に「荒川洋治全詩集」を上梓。70年代以後の日本現代詩の代表的詩人の一人に数えられている。(卞宰洙 文芸評論家)

[朝鮮新報 2009.11.24]