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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちI〉 片思いに命をかけた−朴コ中

恋愛禁止、人間性を抑圧

恋をした女官は即死刑

美人図(作者不詳)

 「女官が外の者と姦淫すれば男女共直ちに斬首とする。妊娠している者は出産を待って刑を執行する。出産後100日の猶予の後に刑を執行する前例には倣わない」(宮女姦通外人者、男女皆不待時斬〈懐孕者亦待産行刑、而不用産後百日之例〉「續大典」)。

 これは、すべての女官の「自由な恋愛」を禁じる法律の一文である。女官の下働きである房子やムスリ(元来はモンゴル語。少女の意。高麗朝の名残)では、100叩きの刑であった。だが、この「續大典」が編さんされたのは、コ中が「姦淫」の罪で斬首された年から280年後のことである。宮中の秘密の保持や、王族の父系血縁の純粋性を保つための法であるが、房子であったコ中は王の甥に恋文を渡した「罪」で死刑にされたのである。電話に手紙、それにメール。現代の女性なら、何度死刑になるだろうか?

側室から女官へ降格

420年前のハングルの手紙(イメージ)

 そもそもコ中は、朝鮮王朝第七代王世祖が首陽大君と呼ばれていた王子時代、その奴婢であった。見初められ、息子をもうけた後、首陽大君が即位すると側室として昭容の位を与えられる。だが息子は死んでしまい、出身が身分の低い「賎民」だったため、宮中での暮しは苦しみに満ちたものであっただろう。

 彼女は悲しみと苦しみから逃れるように恋をする。逃避だったのかもしれない。内侍(宦官)宋重に恋文を書いたのだ。王の側室から求愛されてしまった宋重は命の危険を感じ、自ら世祖に事の次第を告げに行く。

 恋愛が始まったのではなく、あくまでコ中の片思いであった。王は宋重に罪を問うことはなく、そのまま宮中で働くように命じる。だが、コ中は昭容の位をはく奪され、女官である尚宮に降格される。だがこのときは、それ以上罪を問われることはなかった。

房子への降格、死刑

世祖代の回装チョゴリ(南の重要民族資料219号)

 記録どおり本当に「手紙を渡しただけ」ならば、コ中は夢見がちな女性であったのだろう。あるいは、自分の感情に素直だったのだろう。子を亡くし、夫である王は訪れず、一人宮中で朽ちていく自分の行く末を思うと、たまらない感情に苛まれたはずである。その境涯を忘れたかったのか、王の甥である龜城君(?〜1479)に恋文を送ったのだ。当時龜城君は王より24歳年若い20代前半であり、王の信頼も篤く、足繁く宮中に通っていた。コ中は30代から40代だったかもしれない。ハングルの恋文を宦官崔湖に託すのである。恋文を手渡された龜城君は驚き、狼狽し、王弟である父に相談する。父はすぐさま息子を伴い王の元を訪れ、あるがままに告げる。すると王は、今度はコ中を尚宮から女官の使用人である房子に降格させる。だが、コ中の恋心はそのまま消えはせず、今度は宦官金仲湖に二度目の恋文を託す。またまた龜城君は父と共に王に告げる。ここに至ると、王は激怒し臣下を呼ぶ。「世祖実録37」、11年9月の条にはこうある。「朝、急に王族と宰相、承旨などを呼び(王は)命じた。宮女コ中がハングルで手紙を書き、内侍崔湖、金仲湖に頼み、龜城君に渡した。その手紙には龜城君を思慕する旨が書かれてあったという。龜城君とその父龜瀛大君が言うには、分別のない女子供のことは言うまでもないが、知識ある内侍が宮女の言いなりになり、(手紙を)外の者に渡したことは罪が重い。法の下にその罪を暴露する、と」。

 恋文を2回渡しただけで死刑、それも片思いなのに。はたして、龜城君とのことは片思いだったのだろうか。宦官二人は自白の末叩き殺されたが、先の事件(宦官に渡した恋文)もあったのに、なぜ手紙を渡すことを承知したのだろうか。疑問は尽きない。

 龜城君は被害者の立場として「世祖実録37」、11年9月の条に記録されている。

 コ中は絞首刑だった。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.11.9]