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〈遺骨は叫ぶ-30-〉 東京・八王子浅川地下壕

最盛期には4〜6千人を強制徴用、戦争末期の相次ぐ落盤事故

浅川小学校から見た金比羅山。この下にも地下壕がある

 東京駅からJR中央本線に乗り約1時間で高尾駅に着く。駅前からはビルで見えないが、高架の京王電鉄の高尾駅ホームからは西に金比羅山、南に初沢山が見える。この山の中に総延長で約10キロの地下壕がいまも残っている。しかし、この地下壕のことは地元の人もあまり知らない。それは「日本人が掘ったのではないから、地下壕の中に入ったものは、八王子の地元の人々でもあまりたくさんいない」(「武州八王子史の道草」)からだ。では誰が掘ったのか。朝鮮人たちである。

 アジア太平洋戦争の頃、この地域は、東京都南多摩郡浅川町であった(現在は、八王子市高尾町)。町の9割は山林で、人口は約4千人ほど。織物、林業、農業などで生活をする静かな町だったが、突然地下壕を作る工事がはじまると町は一変した。

 1944年の9月初旬、陸軍東部軍の担当者が町役場にくると、「陸軍の倉庫にする地下壕を掘るので協力を頼みたい」と言った。地主会議が開かれ、用地買収を説明されたが、反対すると「非国民」と見做される時代であった。数日後に書類へ印鑑を押すと、すぐに道路工事や、この工事で働く人を収容する飯場や事務所を建てる作業がはじまった。

 この工事は「ア工事」、または「浅川倉庫建設工事」といわれ、鉄道建設興業を経由して佐藤工業と大倉土木(のち大成建設)が請け負った。地下壕は、3カ所で進められたが、佐藤工業が2カ所、大倉土木が1カ所だった。工事は、9月中旬からはじまった。この掘削工事と、イ地区の地下壕に移された、中島飛行機武蔵製作所の施設工事に動員された朝鮮人の数はどのくらいになるのだろうか。「武州八王子史の道草」では、「5千人からの労務者」と記されていたが、浅川の全労務者の食糧配給を一任されていた、青木組の青木保三氏は、「70年を顧みて」の中で「最盛期には、中島関係と私の方とを合わせ、全労務者は3千名に達した」と記録している。「地下秘密工場」では、佐藤工業の場合は、帰国した朝鮮人の数を根拠に500人(家族も含めると1500人)とし、さらに大倉土木百人、青木組500人、合わせて約千百人と割り出している。「これらの事実関係と飯場の規模などから推定すると、2千人前後、家族も含めると約3千人という数字が考えられる」(「西東京朝鮮人強制連行の記録」)としている。

草木が茂っている地下壕の入り口

 しかし、1943年に慶尚南道から強制連行され、静岡県の日本坂トンネル掘削工事現場で働いたが、酷使されるのに耐えられず逃げた後、浅川地下壕を掘った姜寿煕さんは、「当時浅川には、初沢朝鮮人部落(今の浅川小学校の前)があり、12〜13棟の長屋の飯場が並んでいた。また、原部落には6棟の飯場があり、落合部落には2棟の飯場があった。この地下を掘るため、朝鮮から連れてこられた多くの強制徴用工が住んでおり、最盛期には4〜6千人にも達していた」と語っている。いまでは、工事に携わった関係者に会うことは不可能で、朝鮮人の人数を確かめることはできないが、戦争末期の浅川地下壕の工事にはぼう大な人数が集められていた。

 朝鮮人が収容された飯場は、「三角のテント式のバラックがあった。原島には、独身者用のバラック長屋が3棟か4棟あった。川の向こうには、家族持ちのバラック長屋が2棟あった。飯場といっても雨が降ったら雨漏りがする建物だった。人間の住むところではなかった。独身者用のバラックは、畳を縦に2枚敷いて、それがずらっと片方25枚、片方25枚敷いて合わせて50枚の広さのバラックだった。敷居などまったくなく、畳一畳が1人分で、一つのバラックで50人住んだ。左右、頭を両端にしてアシを合わせて寝た。そのなかに便所もあった」(都立館高校『紀要』第9号)という。

 作業は、削岩機を使う人、発破をかける人、掘削で出されたズリ(土砂)をトロッコを押して運ぶ人と、危険な仕事はほとんど朝鮮人がやらされた。3交代という厳しい労働であった。しかもこの工事は、戦争末期の緊急工事で、各地から急いで集めた朝鮮人が主力なので、落盤事故が多発し、多くの死者や負傷者が出たと言われている。だが、会社の下にたくさんの組があり、朝鮮人は飯場ごとに孤立していたこともあって、死者の実態は明らかになっていない。「佐藤工業配下では、ほぼ確実なのが一人、大倉土木、池田組関係では、朴慶植の調査によれば4人である」(「地下秘密工場」)が、怪我人は大勢でたらしいという。工事に動員された朝鮮人も2〜6千人とはっきりしないが、確実な死者が5人というのも理解できない少なさだ。

 浅川地下壕は残されているが、案内板は1枚もない。ただ1カ所希望者があると公開していたところも、2009年8月下旬に筆者が訪れた時は、責任者が病気で、中に入ることができなかった。巨大な浅川地下壕は、地元から文化財に指定をと言う声も出ているが、いまはひっそりと地下に眠っている。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2009.11.2]