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金玉均の書−会津藩元家老、岩内町名士との交流の跡

2度の大火潜り抜け「奇跡の発見」 「眠れぬほど興奮した」

特別展に見入る東京からの観覧者たち

 金玉均から書を贈られた簗瀬真精は、現当主の辰之助氏によれば、北海道開拓初期の混乱期に行政の長として民生の向上、教育の基礎作り、漁業の振興、漁業組合の結成などに腕をふるった。退職後も岩内郵便局長、同郵便電信局長などを歴任し、岩内地方の発展に尽した名士。明治時代に建立された簗瀬家は北海道を代表する建築物として名高い。

 辛応民さんは、同書が贈られたのは1889年3月から6月までの間と推測している。「クーデターに失敗して亡命中の金と、戊辰戦争に破れ、朝敵とされ苦難の道を歩まざるをえなかった簗瀬が互いに理解し、友情を分ちあったのは想像に難くない」と語る。岩内は、金玉均が北海道を去った年の1890年と1964年の2度、家屋の9割を焼失するという大火に見舞われた。その2度の大災害を潜り抜け、発掘された書を岩内町郷土館の坂井弘治館長は「奇跡的な発見」だと喜ぶ。

「ライスカレー事始め」

簗瀬辰之助氏

 岩内で初となる金玉均の書を発掘した辛応民さんは、今から42年前の1967年、月刊誌「岩内ペン」の創刊号に掲載された一文「岩内のライスカレー事始め」に目が釘付けとなった。そこにはこう書かれていた。

 …日・朝友好の兆もある現在、一寸面白い話をかつての文学青年、郷土研究の草分けとして過した山本村治〈静峯堂〉氏に聴いたので岩宇夜話として紹介しておこう。山本氏は喜寿を経た現在、尚も矍鑠としてその記憶のたしかさに敬服した。

 「明治中期に日・韓併合によって朝鮮総督が置かれ、一方、民族主義に燃えた朝鮮独立の志士達が数多くいた。その中で著名なのは金玉均であった。明治二八年〜二九年頃、当時の鬼木廻送店方に(現在の酢谷商店)どういう縁故であったか金玉均が亡命していた。当時の岩内の文化人、大壇那が集まり、談論・風発や囲碁をやり、「平藤田旅館などでは、大碁会を催して遊んでいた。」

 …或る日、お座敷がかゝり…品のよい日本人ばなれのした主客をかこんで三人の壮士達が宴席に連らなっていた。唄い終ると一座の空気を和やかにするために、かの主客が、西洋料理と称する「ライスカレー」を教えてくれた。それが岩内のライスカレー事始めであった。あとで見番でお客の名を聞いた大サのおっかさんは有名な「金玉均」直伝のライスカレーだといってよく皆に教えてくれたそうであった…

坂井弘治・岩内町郷土館館長

 この一文を目にして以来、辛さんは金玉均の書のことが脳裏を離れなかったという。

 「町内の篤志家や実業家の家を訪ねて蔵を見せてもらったり…、ずうっと探し続けた。20年経ち、30年経ってもうあきらめかけていたが、昨年スカパーで放映された南のドラマ『明成皇后』の中で描かれた金玉均の姿を見て、もう一度探してみようと思い立ち、勧められて岩内の旧家・簗瀬家を今年2月に訪ねたところ、それが見つかって…。もうその夜は眠れないほど興奮した」

 坂井弘治館長によると、明治初期の高級官僚の年収は、現在で言えば2千万〜3千万円ほどになり、破格の厚遇を得ていたという。そのうえ、会津藩の家老職として漢詩などの教養を身につけていた真精。当代随一と言われる深い教養人でもあった金玉均の人となりに魅せられたのは間違いないと、辛さんは語る。

 金玉均の1年4カ月にわたる北海道滞在は、日本官憲による強制によるもので、常に日本政府への怒りと憤懣を抱えていたと思われる。

 しかしその間、札幌、函館、小樽などで金玉均を主賓にして盛んに催された有力者たちとの囲碁会や函館、小樽沿線の網元らに求められて書いた書などはかなりの数にのぼっている。

 これらの遺品は、日本政府への怒りとは別に、金玉均と北海道の人々との間で素朴で心温まる交流の日々があったであろうことを示す貴重な史料であろう。

今後も究明を

金玉均の書の前に立つ辛応民さん

 金玉均は甲申政変前の三度の訪日中、彼の意図する国政の近代化ゆえに日本官民から注目されただけでなく、亡命後もその朝鮮革命構想は多くの日本人が賛意を表し、支援を寄せた。

 だからこそ、金玉均暗殺の報を聞いて「友人」、その他多くの人々は、1894年5月20日に浅草・東本願寺別院で葬儀を営み、その遺髪と遺品を青山墓地に埋葬したのである。

 金玉均暗殺を一つの契機となす日清戦争とその後の東アジアにおける激動の時代は、こんにちなお、深く究明され尽したとは言いがたい。

 来年は韓国併合100年を迎える。辛さんは現在も続く日本の排外的ナショナリズムを克服し、朝鮮半島と日本の真の和解と清算のためにも、金玉均の1世紀前の足跡に多くの人たちが心を寄せてほしいと結んだ。

▼金玉均(1851年〜1894年)

 1884年12月4日、国王を開化派が奪い、一挙に権力を掌握しようとする「甲申政変」を断行。しかし、日本側の背信によって「三日天下」に終わった。金玉均はこの失敗で、日本に亡命、その後上海で暗殺された。

 金日成主席は回顧録第1巻(92年)で、悲運に倒れた金玉均について触れながら、金玉均を「すぐれた人物」と称え、「かれの改革運動が失敗しなかったら、朝鮮の近代史が変わっていたのではなかろうかと思った」と指摘している。封建体制の諸矛盾の激化と外国勢力の侵略が進行する中で、政変を準備する際に日本の力を利用したのは、「親日的な改革をするためではなく、当時の力関係を綿密に検討したうえで、それを開化党に有利に変えるためだった、当時としてはやむをえない戦術だった」と高く評価した。

[朝鮮新報 2009.10.30]