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高句麗 ゆかりの地を訪ねて 東アジアに輝かしい足跡、今も

民族の地、父祖の地を実感

中国側から撮った白頭山・天池

 さる8月中旬中国の瀋陽、長春、延吉、白頭山(天池)、集安、丹東地方の歴史文化を探訪する旅をした。

 まず、中国側から白頭山(天池)頂上に登り、白頭(長白)瀑布から流れる鴨緑江の源流を探り、その川沿いにそって高句麗ゆかりの地を訪ねた。

 神秘的な聖山白頭山(2750メートル)は将軍峰、白雲峰、天文峰などがそびえ立つ絶景の名山である。海抜2500メートル以上の峰々を数えても、16峰あるという雄大な山容に心を奪われ、しばし言葉を失った。

 今回もその姿を望遠レンズでひとつひとつ確認し、アリランのBGMを流しながら映像におさめる機会を得られたことが何よりうれしかった。

 晴天に恵まれたなか、十分に時間をとり、白頭山の雄大な姿を熱写した。ただ閉口したのはあまりにも多い登山客(一日平均1万3千人以上)による交通渋滞であった。白頭山のふもとで少し温度の高い露天温泉に入り、体をほぐすことができたのはまさに旅の特典であった。

広開土王陵碑

展示室に保全された広開土王陵碑

 次に向かったのは中国吉林省にある高句麗第二回目の首都・集安。ここには、朝鮮最古の金石文である広開土王陵碑(好太王)が現存する。高句麗19代の王である広開土王の業績を称えるために息子の長寿王によって、414年に建てられた石碑である。

 高さ6.34メートル、幅1.59メートルという巨大なもの。その功績を編年的に叙述した1800文字からなる碑文は、読み取れる部分は少なかった。

 そこから10分ほど移動した所に将軍塚(長寿王)がある。高句麗時代の典型的段築式である方積塚花崗岩の石材を使い、ピラミッド式に築き上げたもので広さ31.8メートル、高さ13メートルの規模を有する。

 集安市役所前には高句麗王家のシンボル三足烏(太陽烏)のモニュメントがあり、高句麗時代の民俗色あふれる絵が描かれていた。まさにこの地がわが民族のゆかりの地、父祖の地であることを実感させられた。

建設ラッシュ続く

長寿王陵「将軍塚」

高句麗のシンボル三足烏(太陽烏)

 中国東北地方は一時期、僻地として取り残された場所であった。今は行くところどころに高層ビルが立ち並ぶ近代都市に生まれ変わっていた。経済格差のひずみを抱えながら建設ラッシュが進んでいるようであった。

 また都市を離れ、農村地帯に入ると、中国の穀倉地帯といわれている通り、実り豊かな田園風景が広がっていた。

 いま、朝中間には、歴史問題が横たわっている。古朝鮮、高句麗(三国時代)、渤海、高麗、朝鮮朝と脈々と続く隣国の文化的な影響力を矮小化する動き。

 さらに、昨今、高句麗を「中国の一地方政権」だとする事大主義的な言説にも、われわれは敏感にならざるをえない。しかし、この父祖の地に立って言えるのは、高句麗、渤海という東アジアに覇を唱えた朝鮮民族の輝かしい文化が、色濃く刻まれているということだった。

愛しい大地

 白頭山天池を源流として流れ下る鴨緑江沿いに丹東に向かう途中、対岸に見える祖国の山河、人々の姿は愛しく懐かしさに胸打たれるものがあった。

 「アンニョンハシムニカ」と声をかけると手を振って応えてくれた情景が今でも目に浮かぶ。

 バス移動の全走行距離2500キロメートルという長丁場を回り、古代高句麗の由緒ある歴史文化に触れたという充実感に浸り帰路についた。(映像記録家 張泳

高句麗とは

 高句麗は紀元前3世紀頃に、高朱蒙が開いた国家。

 初期の首都は、鴨緑江対岸の卒本(現在の中国・遼寧省桓仁)に置かれた。209年には国内城(現・吉林省集安)に遷都し、427年に平壌に都を移した。

 広開土王(在位391〜412年)、息子の長寿王(在位413〜491年)の時代に現在の中国の東北地方に進出した。また朝鮮半島の百済・新羅・伽耶を攻めて、広大な領土を開き、東アジアの強大国家となった。

[朝鮮新報 2009.10.28]