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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちH〉 王を子ども扱いした−張告

「暴君」と「稀代の悪女」と

奴婢から後宮に

張告(イメージ)

 朝鮮王朝第十代王燕山君(1476〜1506、在位1494〜1506)の愛妾であった張告は、奴婢の生まれでありながら宮女として入内、一年余りで内命婦従三品である淑容の位にまで登りつめた女性である。だが王子を産めなかったばかりか、頼りの燕山君が暴虐のかぎりを尽しその王位を追われたがため、王の追放後具体的な調査すらなく即時処刑されてしまった女性である。

 張告は、朝鮮王朝第八代王睿宗の次男である齊安大君の奴婢であり、その家の奴婢とすでに婚姻し子どもまでいたとある(「燕山君日記」47年、8年11月)。父は忠C道の官吏であった張漢弼であることから推測すると、告の母が奴婢、あるいは身分の低い出自であったことが推測される。

 張告は飛びぬけた美人でもなく、すでに子どもまでおり、燕山君よりも年上だったという。ただ、歌舞に秀でた才があり、当時歌のうまさでも有名だった。「燕山君日記」に彼女の父のことを調べるよう命じたくだり(燕山君8年)があるが、その直後に入内させすぐに従四品の位である淑媛を与えていることから察すると、燕山君の彼女に対する思い入れは相当なものであったことがうかがえる。

「稀代の悪女」?

燕山君の墓

 張告を稀代の悪女のように罵る後世の記録もあるが、奴婢である兄弟の身分を平民に「上げさせた」ことや、姉の夫を下位の従七品実務官吏に取り立てたことなどそんなに目くじらを立てることだろうか? 彼女が請願を受け、王に「口を利いてやった」相手は、ほとんどが王族や高位の官僚たちだという。彼らは張告のような身分の者たちを搾取し、妓生を弄び、彼女よりも数百倍の財産を持ち、社会の権力構造の上位に、時には王権さえ脅かしながら君臨していたのである。そんな権力の中枢にいる男性たちにとって、請託や汚職に手を染めていない者たちをも含めて、「礼儀もわきまえない賎しい身分の女」が王の寵愛を一身に受け、王を子ども扱いし、叱り飛ばし、甘やかしたりする様はどうしても許しがたかったのであろう。「賎しい女がそんなことをするなど到底許せない」のである。歴代の王を「虜」にしたのは、なにも「賎しい女」だけではない。王に取りいった妖僧や策士など掃いて捨てるほどいるのだ。

 奴婢という奴隷の身分にあえぎ、飢えに怯え、時にはその身さえ売らなければならなかった張告に、政治的な分別や公人としての義務など望むべくもなかっただろう。奴隷としての「地獄」から救い出してくれるなら、どんなものにでもすがっただろう。

 記録にあるように、「王を子どものように扱い、王はどんなに機嫌が悪くとも彼女さえいれば笑顔になった」とすれば、燕山君は彼女に「宮中の礼義」や「公人としての自覚」など露ほども求めていなかったはずだ。政争の道具として廃位させられ殺されてしまった母と、張告の母性を重ねていたのかもしれない。芸術的感性が鋭かったという燕山君にとって、歌と歌舞に秀でた彼女はことさら魅力的に映っただろう。

子を育むもの

実在した後宮の写真(1882年)

 燕山君の記録を読むと、それが廃位し王位を簒奪した側の記録だとしても「暴君」の謗りを免れないが、母鹿に寄り添う小鹿を殺したという野史の記録などを読むにつけ、「愛情に飢えた子ども」という感を否めない。十分に無償の愛情を注いでこそ子は健全に育つが、その愛情が偏っていたり、溺愛であったり、自己実現のためや条件付きの「愛情」であるならば、子は不安にさいなまれ健やかに成長できない。

 張告と燕山君を結びつけたのは、張告の父の不在と経済的困窮、差別される側の孤独と不安、燕山君の母の喪失と欠乏感、父はいても「父親」ではない孤独からかもしれない。

 張告をして稀代の悪女というが、彼女の立場に立って考えてみると、愛を学べなかった燕山君の暗い情熱と孤独に巻き込まれた哀れな女性だと言えよう。

 張告が王を選んだのではなく、王が彼女を選んだのだから。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.10.2]