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〈遺骨は叫ぶ-29-〉 宮城・多賀城海軍工廠

冬でも裸同然で働かされ、多くの犠牲者 橋桁作るとき朝鮮人を人柱に

多賀城海軍工廠の爆弾工場跡。陸自多賀城駐屯地はいまでも倉庫として使っている

 昭和初期の宮城県多賀城村(現多賀城市)は、村の面積の約半分を田や畑が占める農村であった。だが、1941年にアジア・太平洋戦争が始まると、日本海軍は軍需品の生産を上げるため国内の海軍工廠の増設をはじめた。東北地方には官設の軍需工場がなかったので、岩手県や山形県も候補地に挙がったが、塩釜港に近く、村内を宮城電鉄と塩釜線(現JR仙石線)が走る多賀城村に決まった。

 この計画と工事は、横須賀海軍建築部が行い、軍の秘密事項だったので新聞報道はなく、記録や資料もほとんど残されていない。

 1942年5月下旬から、土地の強制買収が始まった。施設用地は、村の4分の1にあたる49万ヘクタール。現在の陸上自衛隊多賀城駐屯地や工業団地、市役所、東北学院大学などがある一帯だ。

 土地所有者の621人は、6月4日に多賀城国民学校に集められ、数千人の特高に囲まれて承諾書に押印し、その場で買収事務をさせられた。そして1カ月以内に移転するように強いられた。

 多賀城海軍工廠は、零戦に装備する20ミリ機銃、同弾薬包及び爆弾製造の専門工場であった。6月のミッドウェー海戦で敗れた海軍は、航空兵力をすべて失った後だけに緊急工事であった。この工事は、北海道の菅原組に請負わせたが、「当時、軍関係の緊急工事は、菅原組でないとできないといわれ、菅原組はこの工事をさらに天笠、伊藤、土居、新川、古林、関口、泉、鹿島、菊池組という業者に下請けさせていた」(「多賀城市史」第2巻)というが、どれだけの人が動員されたかは判っていない。

爆弾工場が爆発したときに、被害が拡大するのを防ぐため築かれた土塁

 7月になると、始まった工廠工事で働かされた朝鮮人は、「北千島の軍事施設工事から転入された徴用労働者の『産業報国隊』が菅原組、大林組などの組に入れられて、約千人動員されていた」(「朝鮮人強制連行の記録」)が、菅原組の「タコ部屋」は即「強制連行された朝鮮人労働者の強制労働者と見られていた」と「多賀城市史」に書かれているのには驚く。

 作業は、昼夜通しの突貫工事で進められ、朝鮮人たちの仕事は田を埋めて建設用地の造成、トロッコで土砂運搬、鉄道引込線を引く工事などの土木労働だった。

 「現在の大代には菅原組の小屋が作られ、これまた多くの労務者が強制労働を強いられていました。立ちんぼという棒頭が太い棒を持ち、脱走しないようにいつも立ちはだかっていました。人夫たちは腹を減らしていたようで、トロッコ押しの最中に倒れたりすることがありました。冬でも裸同然の姿で働かされて」(「恩讐の彼方に沖区あり」)いたという。

 菅原組の12棟の飯場は、中央に土間があり、その両側が板敷きで長い丸太が置いてあり、窓は一つもなく、昼も薄暗かった。朝になると、丸太の端をハンマーで叩くと、丸太を枕に寝ている人たちが一度に起きた。入口に大きな錠前があり、夜は錠をかけ、終夜番人が巡回していた。また、シェパード犬2頭を飼っており、夜放し飼いにしているので、逃亡はほとんど不可能だった。朝鮮人たちに「布団はなく、毛布2枚だけで、食事も丼飯1杯と汁とおしんこだけで、昼飯は握り飯1個であった。着るものはいつも作業ズボンで、1着支給された後は、何カ月もくれなかった。上半身は、5〜8月はいつも裸同然で、ズボンもぼろぼろになって半ズボン状態になっているものが多かった。風呂に入ることはなかったので、皮膚はまるで象の皮膚のようだった。軍から特配の食料や、被服類も飯場幹部がピンハネして支給せず、施設部配給の足袋やたばこも10倍以上にして売りつけていた」という。

 また、菅原組の飯場では、「病気で動けなくなっても、モッコに入れて現場に連れて行って働かせるという状況であった。したがって、当時、多数の死者が出たが、その正確な数字はわからない」(「多賀城市史」第2巻)。

 1977年頃に、地元の多賀城中学校の郷土クラブの生徒たちが、多賀城海軍工廠の工事を調べた時に、菅原組で働いた朝鮮人・具然圭の証言をまとめている。千島の菅原組で飛行場作りをした後「多賀城に来ても同じで、風呂にも入ったことがないし、弁当のおにぎりをセメント紙に包んだが、紙が固くなり、折り曲げられなくなった。上は裸同然、ズボンはボロ。部屋にはいると、扉に鍵をかけられ、隣と話すことも出来ず、名前も知らないありさまでした」(「多賀城の海軍工廠と他雇部屋」)というが、菅原組がいかにひどかったかが判る。こうした状況の中で、たくさんの死者が出た。「夕方になるとよく馬で屍体を火葬場の裏の畑に運んで埋めた。また、工廠近くの涙橋の橋桁を作るときには、2〜3名の同胞が人柱としてコンクリートの中にぶちこまれたという。まったく非人道極まる虐殺行為がなされたという」(「朝鮮人強制連行の記録」)。だが、約百人ともいわれる朝鮮人犠牲者の実態は、いまだに明らかにされていない。 (作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2009.9.28]