〈朝鮮の風物−その原風景〉 連載を終えて |
闊達で能動的な民衆像に魅了 数年前、外孫の誕生日のプレゼントに似顔絵のTシャツを贈ったことがある。孫の似顔絵とともにプリントした「D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?(われわれはどこから来たのか、われわれは誰か、われわれはどこへいくのか)」の横文字をみて、孫の母親が「なんか哲学的すぎない?」といったのを覚えている。そのとき笑ってすごしたが、実はこのことばはゴーギャンの代表作の題名である。 普通、風俗習慣についての研究は民俗学の領分だが、それに関心を持つようになったのは、民俗学そのものではなく、日本に生まれた在日朝鮮人二世としてのアイデンティティーへのこだわりからだ。 まさに「われわれはどこからきたのか、われわれは誰か、そしてわれわれはどこへいくのか」である。他に芸もなく、不器用にこだわり続けて堂々巡りするうち、いつしか老境にさしかかろうとしている。 「朝鮮の風物−その原風景」もその不器用な生き様の一つである。 ところで、私たちの祖先の生活、風俗をのぞいてみて感ずるところは、そのバイタリティーに富んだ個性的な姿だ。厳しい歴史を乗り越えて生き抜いてきた民衆のくめども尽きないエネルギーにはいつも胸うたれる。そこには司馬遼太郎はじめ少なからぬ日本「知識人」がいうような歴史が止まったような李氏朝鮮時代と変わらぬ停滞した社会(それを二〇〇〇年代のこんにち指摘しなければならないもどかしさが虚しくもある)とはゆかりもない、闊達で能動的な社会、民衆像が見えてくる。 原体験、原風景をもたない在日社会にあって、朝鮮の風物−その原風景」へのこだわりは、単なるノスタルジーではなく、自らを知り、未来を見据えていく作業として、その意義はますます重みを増そう。つたない連載にお付き合いいただき感謝します。(朝鮮民主主義人民共和国人民芸術家)(絵と文 洪永佑) [朝鮮新報 2009.9.25] |