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〈朝鮮の指揮者の素顔-上-〉 国立交響楽団首席指揮者 金柄華さん

音楽を闘いの武器に 4.24、そして朝鮮戦争

 朝鮮音楽界に世代交代の波が押し寄せている。朝鮮最高峰のオーケストラ、国立交響楽団の代表的レパートリーである管弦楽「青山里の豊年」のタクトが2000年以降、3人の指揮者によって振られたのはその兆しだった。舞台に立ったのは金柄華、キム・ホユン、チェ・ジュヒョクの3氏。それぞれ70代、40代、20代と世代が違う。彼らはなぜ音楽を志し、どう向き合ってきたのか。

名曲誕生秘話

古希を過ぎた現在もタクトを振る金柄華さん

 「自信はまったくなかった」

 管弦楽「青山里の豊年」の初演を指揮した国立交響楽団首席指揮者の金柄華さん(73)は、作品創作に携わった1970年当時をこう振り返る。

 「創作が持ち上がったときは不安ばかりが先立った。合唱曲である原曲のイメージがあまりにも強すぎ、プレッシャーが大きかった」

 創作は、金正日総書記から直接与えられた課題だった。

 最初の試演は失敗に終わった。「自信のなさばかりが先立ってしまった。総書記は必ず傑作を作り出せると背中を押してくれた」。

 「人民のための音楽でなければ意味がない」と金さんは話す。創作活動は、数人の作曲家によって始まったが、しだいに演奏家、大衆を巻き込んで作りあげていった。

 「昼も夜もなかった。机に向かうよりも、青山里協同農場や降仙製鋼所など現場の人たちと一緒に時間を過ごした。彼らが心底楽しめるものを作ろうとした」

 同年12月、金日成主席の前で管弦楽「青山里の豊年」を披露した。主席は新しい朝鮮管弦楽が誕生したと満足だったという。

 「もし、総書記がわれわれにテーマを与えなければ、この作品は生まれなかったかもしれない」

 民族楽器と洋楽器の配合管弦楽が織り成す豊かな音色は、現代朝鮮音楽の「見本」とされている。

「文化工作隊」

金柄華さん

 大阪で生まれ、兵庫で育った。アボジは朝連活動家で、金さんは音楽の勉強を猛反対された。「楽譜を持って帰ると、アボジが取り上げて破り燃やしたこともあった。でも、わけもなく音楽が好きで、隠れて勉強を続けた」。

 1948年、兵庫で4.24教育闘争が起こる。県内の朝鮮人学校は相次いで閉鎖された。

 「生徒たちは学校から追い出され、先生もいなくなった。場所を移して生徒同士、それぞれが得意科目を担当し教え合った。私は音楽の授業を受けもった」

 神戸朝鮮高級学校に第1期生で入学した翌年、朝鮮戦争(50〜53年)が勃発した。金さんは生徒たちに呼びかけ「文化工作隊」を結成した。

 ラジオから流れる平壌放送を聞き、祖国の主張を伝えるために舞踊や歌、演劇などで構成した舞台を作り上げた。朝鮮人の集会がいっさい禁止されていた当時、「文化工作隊」は警察の目を盗んで朝鮮人居住地を巡回し上演し続けた。「金日成将軍の歌」で幕を上げ、「愛国歌」で幕を下ろした。

 「その過程で音楽に一生を捧げようと誓った。闘いの中で音楽をやらずにはいられなかった。音楽が私にとって唯一の武器だった。これが私の原点だ」

入団40周年

 金さんは60年に帰国。63年まで国立芸術劇場(当時)でピアノを演奏し、指揮者の道へ進んだ。国立交響楽団には69年に入団した。

 それから40年、朝鮮音楽界をリードしてきた金さんは朝鮮の管弦楽について「アンサンブルの水準が高い」と指摘する。「アンサンブルは精神的な統一によって生まれる。われわれは志と目標を同じくする同志だ。だから音色も自然と合う」

 また、朝鮮音楽の真髄は「感情」だと指摘する。それが魅力である一方、演奏を指揮するうえで難しい点だ。

 「朝鮮管弦楽の原曲はほとんどが歌詞のある歌だ。歌詞に内容があるため、むしろ西欧音楽よりも表現しにくい面がある。音楽には生活がある。その感情を正確に表現するためには実体験が必要だ」

 金さんは音楽に捧げた長い歳月を振り返り、「一度もやめようと思ったことはない」と話す。若い頃は「手のつけられないほど激昂的」だった性格も古希を過ぎてからは、「温和になった」という。

 今年で交響楽団入団40周年を迎えた心境について尋ねた。

 「まだ5、6年しか経ってない気分」と金さん。「引退という言葉はとっくの昔に忘れた」と笑った。

[朝鮮新報 2009.9.25]