〈脳内出血による失語症者の闘病記-3-〉 絶望の淵からの再挑戦
2004年の7月下旬、都内の病院を退院した。久しぶりに家に戻ると、懐かしさとともにうれしさがわいてきた。だが一週間も過ぎると、私は「これではまだダメだ」と考え始めた。右手がまったく動かず、右足も杖を持てば若干歩ける程度だった。問題の言語は、単語を3、4個並べるぐらいだった。
妻に私の意向を伝え、長野県にある温泉病院を探しだした。同じ年の8月30日、またも病院での闘病生活が始まったのである。
「新天地」の温泉病院だと思いきや、かえって厳しい病院だった。この病院には関東、東海、北陸、信越から来ている患者が多く、約80%が脳梗塞や脳障害者だった。先生と一対一の訓練が20分で終わると、後は個人の努力次第であった。朝方の6時から訓練を始める患者、昼や夕方にあちこちにある広場を使ったり、または一階から五階まである上り下りのスロープでの訓練を行っている患者もいた。言語も自己努力が重視されているようだった。30分の練習は主に記憶力を強化するものだった。
入院から2カ月後、6人部屋に地元長野県の患者が3人入ってきた。彼らは例年のごとく「越冬隊だ!」と言いながら、病院生活をしていた。ある日の夕方、私は言語の一人レッスンを終えて歩く訓練でもしようと思い、ベッドから降りた。すると、一人の患者が私に向かって「毎日頑張るね、でもこの病気は治らないんだよ。良くて現状維持なんだ。だから俺らも現状のため毎年寒い冬を避け病院で『越冬』してるんだよ」と、周りにも笑い半分の声をかけていた。私は、そのような話は初めてで、まさかと思った。20分ぐらい聞いていた。そう思うと、確かに治療で良くなった人を見たことがなかった。もしかして「治らないのかも?」と、思った。
次の日から段々と意欲を失い、気持ちも落ち込んでいった。「一生懸命努力していたのに、治らないなんて。いっそうのこと、死のうか?」と思うと、目の前が真っ暗になった。屋上から下を覗き込み、「ここなら」と思ったりした。だが、娘3人がまだ若く、とくに末っ子は小学2年生だった。私が頑張らないと、と思ったのは2週間後だった。
毎週の日曜日、欠かさず東京から長野県上田市の病院まで車で片道4時間もかけて来てくれた妻や、また高齢だが元気な父母の事を考えると頑張らなくてはと思ったのである。(尹成龍、東京・江戸川区在住)
[朝鮮新報 2009.9.24]