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平壌で出版された学位論文 幻の「風雲記」を追って

朝・日科学技術交流の先駆者、田村専之助

 今年の春先、ソウルのドキュメンタリー制作会社の朴社長とともに、静岡県三島市を訪れた。社長といってもたった一人の会社で、脚本から撮影、インタビューとすべてをこなすが、環境問題をテーマとしたその作品は高い評価を受けている。三島市には世界的にも珍しい湧き水がそのまま源流となった柿田川があり、朴社長はその取材のために来たのである。そして、この日のもう一つの目的は、朝鮮気象学史研究で知られる故田村専之助博士の自宅を訪ねることであった。

朝鮮気象学史研究

「風雲記」

 15世紀の世宗時代に考案された「測雨器」や「水標」による観測は、近代気象学の先駆といえるもので、朝鮮が世界に誇る科学的業績である。それに関して初めて研究を行ったのは、以前に本紙でも紹介したことがある朝鮮総督府観測所所長を務めた和田雄治であるが、田村博士はそれを引き継ぎ朝鮮気象学史の研究を精力的に行い、京都大学から博士号を授与された人である。定時制高校に勤めながら、「三国史記」「高麗史」「朝鮮王朝実録」をはじめとするぼう大な資料を駆使した長い年月をかけた研究であった。当初は出身校である早稲田大学に学位を申請したが学問的価値はないとされ、中国科学史研究の第一人者であった薮内清に認められ京都大学から学位が授与されたという経緯がある。さらに、その学位論文は当初日本では出版されず、朝鮮科学史のもっとも優れた解説書といえる「わが先祖の誇り−科学と技術の話」(日本語訳「朝鮮の科学と技術」、明石書店)の編者である李容泰による抄訳が、1960年に平壌の国立出版社から出版されている。今から50年前のことになるが、日本人の著書が出版されることは極めて稀で、それはこの本の重要性を物語る。

「風雲記」

1960年版「朝鮮気象学史研究」

 さて、筆者が田村邸を訪れるのは、この日が二度目である。前述の「朝鮮の科学と技術」所収の「日本における朝鮮科学史研究」という解説で田村博士の業績を紹介したところ、ご子息から田村博士の蔵書や資料を整理したいので一度見てもらえないだろうかという連絡をいただいたことがあった。けれども、その時は筆者自身、朝鮮気象学史の内容を深く把握しておらず、はっきりとした問題意識を持たないままの訪問であった。それに対し、今回は明確な目的があった。それは、朝鮮気象学史のもっとも重要な資料である「風雲記」を田村博士が保管しているのかどうかを確かめたかったからである。

 「風雲記」は朝鮮王朝時代の天文気象観測を行う観象監の観測原簿で、朝鮮が日本の植民地となった直後に、和田雄治が観象監があった場所の倉庫からそれを発見した。そして、1917年に刊行された「朝鮮古代観測記録調査報告」で紹介したのだが、現在は行方知れずとなっている。現存するただ一基の「測雨器」は和田が日本に持ち帰り、それが返還されたものであることから、「風雲記」も和田が持ち帰り、もしかしたら田村博士が保管しているのではと研究者のなかで期待されていたのである。最近、許俊の「東医宝鑑」がユネスコの「世界の記録」、通称「世界記録遺産」に指定されたが、「風雲記」も同様の価値をもつ。朴社長も、もし、それがあればカメラに収めようと考えたのである。

 残念ながら「風雲記」はなかったが、あらためて田村博士の蔵書を確認し、さらに直筆の履歴書やメモ、書簡などを拝見することができた。書簡のなかには田村の師にあたる歴史学者・津田左右吉のものがあり、唯物史観を信奉する田村に対する批判が書かれてあった。田村が早稲田大学での学位申請が適わなかったのにはこのような背景があったのである。

朝鮮との関わり

贈りものの目録

 田村博士の経歴を見ると、朝鮮大学校創立時には非常勤講師を務めるなど研究のみならず朝鮮との関わりは深く、1958年には平壌を訪問している。その時のメモもあり、「朝鮮の気象学」や「科学と芸術」という講演を行ったことや、前述の「朝鮮気象学史」の翻訳出版について、世界に誇るべき朝鮮科学史の偉業を紹介する本なので、それなりの装丁にしてほしいと要望したことなどが書かれてあった。この年はちょうど朝鮮創建10周年にあたるが、その記念公演のパンフレットもあり、公演演目とともに総指揮および舞踊指導・崔承喜ほかそこに携わった人たちの名前も列挙されていた。東洋の舞姫として崔承喜はあまりにも有名であるが、そのメモには歓迎宴で彼女と教育相の間に自分の席があり恐縮したとある。

 さらに、当時、科学院院長である白南雲直筆の贈り物の目録もあり、パンフレットとともに寄贈していただいた。白南雲は1933年に改造社から出版された「朝鮮社会経済史」の著者として知られているだけでなく、政治家として朝鮮現代史にその名を残す人である。解放直後に朝鮮学術院を組織し、呂運亨の人民勤労党副委員長を務めるが、呂運亨が凶弾に倒れるとそれを率い、1948年南北連席会議では「南朝鮮の現政治情勢」という報告を行っている。会議後はそのまま平壌に残り、朝鮮創建時には初代内閣の教育相を務めた。

 白南雲は達筆として知られ、1966年に日本で出版された「朝鮮文化史」の題字は彼の筆によるものである。上下2冊で各2万4千円という破格の出版物は、当時、朝・日交流の気運がいかに盛り上がっていたのかを如実に示すものといえるだろう。31人の刊行委員には谷川徹三、末川博、旗田巍をはじめ錚々たる人物が名を連ね、なかには物理学者・坂田昌一の名前もある。湯川秀樹、朝永振一郎についでノーベル賞を受賞するといわれていたが、早くに亡くなったためその機会を逸した。ちなみに、去年、ノーベル賞を受賞した益川敏英、小林誠両氏は彼の弟子である。むろん、その中に田村博士の名前も見ることができる。

 「私とともに30年、茨の道をふみやぶってきたおまえ/今、はれがましくよそほい私の方がはずかしくなる/この山、この木、この水、ピチピチと生気にみちて躍進また躍進/もはや何ものもおそれるものはない/栄光の丘をめざして共に進もう、手に手をとって/朝鮮科学史30年 田村専之助」

 これはメモにあった「朝鮮によせる恋」という詩文である。市井にあって、けっして誰もが知るという存在ではないが、ひたすら朝鮮に関する研究に打ち込んだ田村博士の心情が伝わってくる。田村専之助、まさに朝・日科学技術交流の先駆者の一人である。 (任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2009.9.24]