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〈脳内出血による失語症者の闘病記-2-〉 言葉取り戻す苦闘

 私が病名を知ったのは、もっと後のことである。それはさて置き、体には何の痛みもなかったが、右半身が動かず感触のない変な感じの不自由さだった(2年後には痺れが出てくる)。でもこれは、いずれ治るんだと思い治療に専念していた。毎日、車椅子で1階のリハビリ科に運ばれて行き、訓練した後はまた病室に運ばれて来る状態がつづいた。

 言葉については言語聴覚士がいて「声」を出すことを教わる。私は当初、先生から「これは何色?」と言われても返答ができなかった。言葉も出てこないし、「赤」という意味すらわからなかった。「あ」とか「い」とか母音のような一音が出るだけで、意味のある単語になると到底ダメだった。それでも必死に訓練していると3カ月後には、簡単な単語が出るようになった。例えば「あさ」とか「ごはん」「トイレ」など生活必需語が出てきたのである。

 文章になるには、もう少し時間がかかった。6カ月ぐらいになるといろいろな訓練があって、その中には4コマの絵が描かれていて、文字はなくそれを言葉で説明することが求められた。初めは文章になっていないが、段々と単語を思い出し文章にしていく。また、原稿用紙にカタカナで、50字から100字ぐらい詰めて書けるようになった。句読点もなしに…。それを平仮名にして、できれば漢字を書いて句点、読点も入れる。二つの文章になったり、ときには三つの文章になったりして、意味のある文章ができあがっていった。私にとっては難解な訓練だった。

 この頃、私の考え方の奥底には、仮に右手が動かなくても左手があるし、足がダメなら車椅子があるではないか、だが、言葉は違う。意思伝達をする言葉はかならず必要だという思いが、すでに宿っていたようだ。

 この頃から言語の宿題とは別に、妻が毎日持って来てくれる新聞を「観る」ようにした。ある後輩が見舞いに来たとき、「私の母が軽い脳梗塞による失語症になったので、下手だが新聞を読むようにした」という経験談にヒントをもらった。私はそれは良いことだと思い、ただ毎日毎日読むようにしたのである。

 病院では、言語能力が少しずつ良くなっていること、それにまだ50歳の若さということを医師たちが検討した結果、異例だが入院期間をさらに3カ月延ばし、9カ月にしてくれた。(尹成龍、東京・江戸川区在住)

[朝鮮新報 2009.9.16]