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〈脳内出血による失語症者の闘病記-1-〉 車椅子とともに

 私は脳内出血により右半身がマヒして、右の手足が思うように動かない。さらに、左脳の流血で言語障害も残り失語症になっている。今年の10月で丸6年になるが、良くなった部分もあれば、一向に変わってない所もある。それでも私は、前向きに考え行動するのが重要だと思っているが…。

 発病したのは2003年の10月12日であった。その日は土曜日、会社が休みなのでゴルフにでも行ってみようと思った。その年、2回目のプレイで、久しぶりに緑の芝生で「散歩」をした。初めてのメンバーらと昼食を終え、後半のゲームを始めた。10番ホールでクラブを振ると急に右手の反応が鈍くなった。7回でグリーンにオン。でも、もうパットをする気力もなく、諦めてカートに乗った。やがて右手が変になり、記憶もおぼろげになってきた。最後に聞こえた音は救急車のサイレンのようだった。

 記憶を取り戻したのは4日後で、千葉県内の病院のベッドの上だった。当初、脳外科の医師は家族に「発病後、6時間内に出血が止まらないと命の保障はできないし仮に手術しても植物人間になるだろう」と通告したようだ。私は偶然なのか、6時間と20分後に出血が止まった。その後も4日間、血圧が200を上下し、再発の危険度が高かった。

 その4日間が過ぎると眼を開けたり左半身や顔、首を動かしていたようで、まだボヤッとしていて話はできず寝たきりだった。10日間が過ぎる頃、病院では初期治療が大事だと、反応は鈍いがベッドの横で歩く訓練や声を出す練習をするようにしてくれたようだ。

 私は2週間後から車椅子に変わり、3週間後には東京都内のある病院に移り、車椅子と共に闘病生活が始まった。その病院では歩く訓練やマッサージ、手を動かす訓練、そして言語の練習などを始めた。毎日このような訓練をしていたが、余り変化がないようにも感じた。

 発病から1カ月頃のある日、リハビリ科で歩く訓練をしようとしていた時、ある商工会の理事長と後輩の二人が見舞いに来てくれた。後輩は私を見るやいなや、他の患者の前で大声で泣いてしまった。多分、私の姿を見かねたのだろう。

 数日後、妻は私に見舞いに来た人がとても多かったことや、その中には激励と共に涙を隠さない人がいたと教えてくれた。記憶が定かでなかった私は、妻から聞かされて、そんな状況を初めて知った。( 尹成龍、東京・江戸川区在住)

[朝鮮新報 2009.9.10]