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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちG〉 今も愛される女性詩人−李梅窓

悲恋を詩に昇華させて

村人が詩碑建立

李梅窓(イメージ=アン・ヨノク画)

 李梅窓は許蘭雪軒、黄真伊と並ぶ朝鮮王朝時代の女性詩人である。彼女が没した1610年から45年後、全羅北道扶安にある彼女の墓の前に詩碑が建てられた。友でも肉親でもない村の人々が、彼女の詩に魅了され建てたものだという。また、彼女の死の58年後には、開巌寺から詩集が出版された。「梅窓集」の跋文には次のような一節がある。

 「癸生の字は天香であり、自らを梅窓と号した。吏李陽従の娘であり、1573年に生まれ1610年に没した。38歳であった。生涯詩をよくし、創作した詩数百首が人々の口に上った。だがすべて散逸し、1668年、官吏たちが伝えていたものを集め、58首を出版する」

 詩集は人気が高く、寺を訪れる人々がこぞって一冊持っていくので、寺の破産を防ぐため木版を焼いてしまったという逸話が伝わる。現在「梅窓集」はハーバード大学と澗松美術館に所蔵されている。当時妓生であった彼女の墓に村人が詩碑を建て、詩集が出版されたということは、朝鮮王朝時代においては破格のことであった。また自ら号し、名と字をも持つ女性は稀有であった。本名は香今といった。

出会いと別れ

梅窓詩碑

 賎民出身だが当時有名な詩人だった四十代中盤の劉希慶と、名妓として有名だった18歳の梅窓は1590年頃、偶然出会い、愛し合うようになる。詩が彼らを引き合わせ、互いを結びつけたことは「梅窓集」に詳しい。記録によると彼らは詩を互いに贈りあい、ロバに乗り山川を二人で遊覧しひとときの幸せを謳歌したという。だが、劉希慶がソウルに戻り、ほどなく壬辰倭乱が起きたため、二人の縁はぷつりと切れてしまう。出会いから約1年後のことだった。

 梅窓は悲嘆に暮れ、切々と恋心を詠う。

 梨の花が雨のように散るなか
 涙に暮れ別れた人
 秋風に散る落ち葉に
 あの人もわたしを想うだろうか
 遠く離れ孤独な夢だけがさまよう
 (「梨花雨」)

 彼女の詩が人々の心を魅了するのは、その繊細さと透明感、そして悲しさにあると言えるだろう。まして、「歌曲源流」などの記録には、その後梅窓が「死ぬまで」「操」を守りながら、ただ一筋に劉希慶だけを愛し抜いたとあるのだから、事実なら劇的である。

妓生の「操」

第3回梅窓文化祭(1974年)

 妓生と「操」。これほどちぐはぐな取り合わせはない。妓生がもしそうしようと思うなら、妓生という職業を放棄するか死ぬほかはない。幼くして父母を亡くしている梅窓にとって、妓生を続けていくことが生活そのものであったはずだ。だが多くの人々は、「愛が成就しえない宿命の前に、ひとり気高く操を守った」妓生というファンタジーを好む。当時、女性たちに慣習的な忍従を強いた男性支配層は、至極非慣習的な女性像を「妄想」しながら、その境界を超える勇気ある女性の行動をあるときは非難し、あるときは賛美した。

 決して抗うことのできない、抗うことを許されない禁忌の領域を定めながら、その領域を超えるところを見ようとする歪んだ欲望。それは、実質的には実存することを許されない対象を想像とイメージで作り上げ、占有しようとすることと同義である。そこには「劉希慶と恋愛した梅窓」はいても、生身の李香今はいない。彼との短いロマンスだけが、彼女の全人生を知るコードではないはずだ。実際、梅窓は劉希慶との別れの後、自ら望んだものではなかったが、扶安の長官や全羅南道長城郡の長官であった李貴の情人であったという。高くそびえる透明な壁の前で味わう疎外感。その芸術的才能があればあるほど、苦悩と葛藤は深いものであっただろう。

 がらんとした部屋に
 疲れた体だけが残され
 ひとり寂しい病身に
 ただ40年が過ぎ去った
 寒さに震え 飢えに苦しんだ40年
 かくも長く長い
 (「病中秋思」部分)

 絶望の中、梅窓は新たに心を分かち合える男性と出会う。許筠である。彼の著書には、梅窓との交際は純粋にプラトニックであったとある。才能ある人間同士の魂の触れ合い、友情であったと。

 梅窓は38歳で没し、劉希慶は92歳と長寿であった。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.9.4]