〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちF〉 天主教の母−姜完淑 |
新しい世界観に命捧げて 天主教の母
現代南朝鮮のカトリック信者たちは、尊敬の念を込めて姜完淑を天主教(カトリック)の母と呼ぶ。朝鮮の天主教史上初の女性会長姜完淑(洗礼名コロンバ)は、当時禁止され、弾圧を受けた天主教の布教と、自身の信念にその命を捧げた女性である。天主教に対し比較的寛大だった朝鮮王朝第22代王正祖(リ・サン)が逝去し、その幼い息子が王位を継承するや、先の21代王英祖の后であった貞純王后が摂政となり、政敵である派閥、南人が多く入信している天主教を邪教として激しく弾圧した。姜完淑は、貞純王后とその背景である老論僻派が起こしたカトリック史上稀に見る大虐殺事件である「辛酉迫害」の犠牲者でもある。300人以上の人々が処刑され、あるいは島流しになった凄惨な事件である。背教者の密告により逮捕された姜完淑は3カ月間取り調べを受け、6度に渡る拷問にも耐え抜いたばかりでなく、刑吏や看守たちにキリスト教の教理や孔子の教えを説き、彼らをして「この女人は人ではなく神だ」と言わしめたほどであった。逮捕された後も「天主教を学び自ら進んで入信したのだから、処刑されるとしても悔いはない」と言い残した。 処刑は5月23日、41歳であった。朝鮮王朝実録「純祖実録」1年10月条には 、「姜完淑は女流の頭目であり、周文謨という者を自宅に匿い、姓名と居住地を汚らわしく変更し欺き、邪まな行いが数多くあったがために数度に渡り拷問を加えたが、死を賭して隠し続けた」とある。
神父を匿う
朝鮮天主教創設が1784年、その10年後中国人神父周文謨が密かに朝鮮に入国したとき、姜完淑はすでに天主教の信者であった。ソウルに到着した神父は密かに布教活動を開始したが、背教者の密告によって逮捕命令が下る。それを知った姜完淑は自宅の倉庫に神父を6年間匿い続け、ソウルの彼女の自宅は事実上教会の役割を果たした。当時姜完淑は、天主教に理解を示さなかった夫を忠清道に残し、姑と前妻の息子をともないソウルに上京していたのだ。夫のいない家に男性を匿うなど、当時の常識では考えられないことであった。朝鮮天主教では彼女を朝鮮教会初の女性会長に任命し、女性への伝導を任せた。彼女はソウルの自宅を拠点に信仰共同体を組織し、個人的にこの信仰が自身を天国に導き、朝鮮を広い世界に導くものだと信じていた。姜完淑は、島流しにされた王族の夫人たちに周神父を紹介し、現実に絶望する彼女たちに生きる光を与え、教理研究団体「明道会」に加入させた。周神父が入国したときは4千人ほどだった信者数は、5年後には1万人に達したというから、姜完淑の献身的努力のたまものである。
家族制度の壁乗り越え
天主教の男女平等思想に共鳴した姜完淑は、教会の女性たちに教育の機会を与え、信仰と経済的自立のための共同生活を主導した。これは歴史に輝く足跡を残した当時の女性たちの中でも、突出した先駆的一面であろう。 「殉教」「殉国」のように、朝鮮史を輝かせた女性たちにはこの「殉」の文字があてられることが多い。もちろん、想像を絶する拷問にも耐え、最後まで信仰を捨てなかった姜完淑の献身的信仰心は感動に値する。だが、それ以上に注目したいのは、信仰に反対だった夫を故郷に残し、果敢にもソウルに上京、信仰活動を続けたその自立心である。朝鮮王朝時代に家族制度の壁を乗り越え、自身の目的と信念を貫いた生き方は、現代でもたやすいことではないだろう。王族から奴婢に至るまで、あらゆる身分の女性たちが姜完淑の信仰共同体に集ったのは、暴力的な身分秩序で成り立っていた後期朝鮮王朝において男性支配の恒常的な抑圧から、脱走と解放の可能性を模索するためではなかったろうか。献身的かつ犠牲的な部分が強調されがちな姜完淑の生涯であるが、実は積極的で挑戦的、革命的ですらあったと言えるだろう。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2009.8.7] |