〈遺骨は叫ぶ-28-〉 山形・永松鉱山 |
騙して連行、強制貯金の名で未払い 山菜採りで空腹しのいだ労働者たち
山形県の大蔵村から寒河江市に通じ国道458号は、いまでも冬期間の約7カ月間は交通が閉鎖になる。丈余の雪に覆われるからだ。海抜が870メートルの十分一峠はその昔、永松鉱山に入る商人から売値の10分の1の税を取ったところだ。その峠から悪路を鉱山川に下ると、旧永松鉱山の精錬所や沈殿槽などの跡が残っている。廃墟のあとから強制連行された朝鮮人たちの声を聞くのは難しい。 松永鉱山は、慶長期に地元の人が発見したとも伝わり、元禄期には、3千人もの人たちがこの谷に住み銅を掘ったという。だが、その後は衰弱し、小規模な稼業を続けた。しかし、1891年に隣接する幸生鉱山を経営していた古川鉱業の手に移り、精錬所や選鉱場が次々とつくられ、近代的な鉱山に生まれ変わった。 幸生―永松間に道路も開設し、産額は増加して盛況を極めた。しかも、日中戦争がはじまると、軍需省からさらに増産が求められ、鉱山は活況を呈していった。 アジア・太平洋戦争がはじまる直前の永松鉱山は、「人口1500人、戸数250、従業員550人」であった。しかし、日中戦争が激しくなると、日本の若者は次々と戦場に駆り出され、永松鉱山でも坑夫の不足が深刻になってきた。 1939年に「朝鮮人労務者内地移住に関する件」が発令されると、永松鉱山はさっそく申請し、「昭和15年5月半島労働者49名の移住」(「東北鉱山風土記」)の許可を得ている。
その後の連行数は明らかではないが、「永松鉱山全体では朝鮮人は家族あわせて最低600人ぐらいいたと思います。設楽里太という人と武田長治という人が朝鮮に行って連れてきたのです。鉱山の本局(本部)の佐藤弥三郎さんが朝鮮人を連れてくる采配を振っていました」(東海林寅雄)と語っている。また、永松鉱山には「600人ほどいたが、大半は朝鮮南部から送られてきた人たち」という記録もあるので、約600人ぐらいだった。
永松鉱山に連行された朝鮮人の年齢は平均して32歳で、27、8歳〜40歳までの人たちだった。朝鮮人の飯場は中切、゚坂、川前、赤沢の4カ所にあり、独身者は一般の社宅から離れた「合宿」と呼ばれる施設で、雑居の集団生活をしていた。既婚者は、一家族ごとに仕切られた「朝鮮長屋」に入っていた。 朝鮮人の仕事は、ほとんどが車夫(トロ押し)で、支柱夫はあまりいなかった。労働時間は原則として3交替制になっていたが、朝鮮人が働いたのは遅番と早番であった。車夫の仕事は厳しかったうえに、早番と遅番で働かされるので疲れがひどかった。 また、食事なども朝鮮人には十分に渡らなかった。永松鉱山では、生活必需品は切符による配給制度になっていた。購買部で品物を受け取るのは、役宅、職員、作業員、朝鮮人の順序となっており、山奥ではなかなか入手できない新鮮な魚や、野菜、果物などが朝鮮人の手に渡ることはほとんどなかった。そのため朝鮮人たちは、仕事の合間に山へ入り、草木の芽や葉、山菜などをとっては食べていた。山菜をよく食べる大蔵村の人たちも驚くほど、たくさん取って食べていた。秋になるとブナやナラ、ドングリの実などを食べているのをよく見かけたという。 朝鮮人には食料だけではなく、衣服なども十分に配られなかった。永松鉱山は寒いうえに雪が深いので、長靴は必需品であったが、朝鮮人には配られなかった。深い雪の中を地下足袋で飯場と坑口を往来するのは大変だった。しかも、雪が降るころになっても、ランニングにパンツといった姿で、寒さにぶるぶる震えていた。坑内に入ると寒くないので冬は空腹でも坑内に長く入っていようとした。また、寝具、作業衣、地下足袋、カンテラなどの作業用具は、無料で支給する約束だったが、日本へきて働くと有料だったりと、朝鮮人は苛められた。 仕事が厳しいうえに衣料や生活用具もこんな状態なので、永松鉱山の朝鮮人たちはよく逃亡した。「逃亡しても土地不案内な朝鮮人のこと、寒河江側に逃れたものはほとんど捕まったし、夜陰に乗じて脱出しても、とくに冬には、身の丈にあまる雪の中で凍死したこともあった。しかし、多く失敗する中でも『また逃げた』とはたびたび聞いたが、春3月の雪原表面が固まる堅雪の時に、一度に13人もの逃亡が成功したこともあった」という証言も残っている。 また、朝鮮で高い賃金の契約をして、いざ日本にきて働くと、約束した賃金から船賃とか食事代などが引かれ、何カ月たっても一銭ももらえなかった。少し賃金が支払われると強制貯金に取られることが朝鮮人の怒りとなり、2度も大きな事件が起きている。朝鮮人が公務執行妨害罪などに問われたが、実際は「募集係が適当な嘘を言って連れてきたわけだが、約束と実際との違いに対する反発だった」(東海林寅雄)という。 1945年8月15日に日本の敗戦を知った朝鮮人たちは、永松小学校の校庭に飛び出し、輪になって鐘をたたき、躍り上がって喜んだという。迫害された苦しみが大きかっただけに、その喜びはどんなに大きかったことだろうか。 だが、廃鉱になって長い年月が過ぎた幸生鉱山・永松鉱山は、いま訪れる人もなく十分一峠の山中に沈んでいる。(作家、野添憲治) [朝鮮新報 2009.8.3] |