〈朝鮮の風物−その原風景 −22−〉 渡し場
ゆったり、支えあった頃
金弘道の「渡し舟」は、市場にむかう人々の姿を個性豊かに描いた風俗画だが、ここには狭い川舟に馬や牛、老若男女の庶民、両班がひしめき合って乗り込んだ光景がユーモラスに表現されている。 18世紀の庶民生活を描いたものだが、その光景は現代の、ここ数十年前までのどこででもみることのできた日常風景だった。
かつて交通事情が十分でなかったころ、わけても川に道を遮られところでは、舟は欠くことのできない貴重な交通手段の一つだった。当時人々は川向こうへの用足し、市場の買い物、親せき訪問など、生活上のさまざまな用事を舟に依存して生きたのである。そんな渡し場には必ず船頭の家があって、対岸、此岸を問わず一声かければ、いつ何時でも川を渡してくれる。貧しくはあったが、人々が支え、支えられながらともに生きてきた。
しかし交通手段、とくに橋の飛躍的増加で、渡し舟はその役割を終え、いまでは観光地、文化保存の見地からのごく一部を除き、そのほとんどは姿を消した。日本でも事情は同じで、たとえば映画の寅さんがふらっと柴又に舞い戻るとき決まって乗る矢切の渡し舟はいまも現役と聞くが、これも生活手段としてより観光に重きをおいた存続といえそうだ。
渡し舟を朝鮮語で「蟹欠壕」というが、その「蟹欠」とは「川」の古語で、いまも使われている「鎧」(小川)にも通ずる。「蟹欠」は現在では川や海の舟着き場を意味する用語として使われており、場所を指す「斗」を足して「蟹欠斗」と表記もする。中世にいたって「蟹欠」に「津」「浦」の漢字をあてるようになり、それが地名として定着した。「清津」「南浦」「麻浦」「夢金浦」などがそれである。ちなみに「津」は普通の渡しで、「浦」は「津」よりも大きいものを指すそうだ。
渡し場は出会いと別れの交錯する場として、しばしば歴史や、文学などに登場する。
紀行文学として名高い朴趾源の「熱河日記」は、統軍亭下の九竜津から燕行使として鴨緑江を渡るところから書き起こされている。折しも大雨による増水で困難をきわめた渡江状況はリアルだ。
また詩人申庚林の「空は私に雲になれといい/地は私に風になれという」で知られる詩「牧渓市場」は、土俗語を駆使し牧渓の渡し場を中心にした市場に集まる民衆の生き様と哀歓を謳いあげる。
小説「張吉山」の書き出しも、吉山をみごもった奴婢が、追手を逃れて白川の渡し場を渡る場面からである。いずれの作品も、人々の支えあって生きる姿が胸を打つ。
こんにち、交通手段の進歩と発展によって、私たちは便利な生活を獲得した反面、あまりにめまぐるしい速さで進む時間に翻弄されてはいまいか。
人間の有する体内時計のリズムに沿って互いが支えあえる、ゆったりとした時の流れと、生活リズムをとりもどしたいものだ。(絵と文 洪永佑)
[朝鮮新報 2009.7.24]