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〈生涯現役〉 自叙伝「がむしゃら人生」を上梓−黄道姫さん

第一線でキャリア磨く

 自叙伝「がむしゃら人生」を上梓したばかりの黄さん。4年前の夫の死から立ち直り、せめて子どもや孫たちに母親の生き方を知って、「人から後ろ指を指されないよう、正直で誠実な人生を歩んでもらいたい」という思いから約2年の月日をかけて書き綴った。

60年前の凍傷

同胞たちへの感謝を惜しまない黄道姫さん

 黄さんが生まれたのは父の故郷、慶尚北道英陽郡青杞面。満州事変の勃発した1931年のことだった。父が渡日したのは33年。その翌年、母は3歳の黄さんを連れて、玄界灘を渡った。裸一貫で渡日した両親は、15万人の同胞たちが強制連行された筑豊炭田(福岡県)の長屋に移り住んだ。

 小学校2年のとき、炭鉱で仕事していた父が、右手薬指と小指の第一関節を切断するという事故に遭った。炭鉱から支給されたわずかな傷病手当金でリヤカーを買い、野菜売りを始めた。弟たちも生まれ、6人家族になった一家は、貧乏のどん底に突き落とされた。それでも働き者の父は、炭焼きも始め、懸命に働いた。

 黄さんは片道2キロの山道を歩きながら高等小学校に通ったが、靴もなく冬でも下駄履きだった。雪道で鼻緒が切れて、裸足のまま家路を急いだこともあった。60数年経ってもそのときの凍傷は直らない。

 成績が優秀だった黄さんは、両親の勧めで、九州大学看護学校の試験を受けたが、失敗。今度は、手に職をつけるため、北九州市八幡のドレスメーカー洋裁学園で学んだ。

 やがて祖国解放。同胞たちの暮らしに大きな変化が見え始めた。両親も帰郷しようとしていたが、反動化が進む南の情勢を知り、帰国を断念。一方、同胞たちは自らの組織の結成に動き、黄さんは46年朝聯青年政治学院で学ぶことに。

 「日本の学校では理不尽な差別を受けて、わが身の不運を嘆くばかりだった私に、この学院は民族の誇りを吹き込んでくれた。ここで学んで朝鮮人の民族意識を取り戻すことができた」と振り返る。学院で学んだ人々は組織の活動家として巣立っていった。当時、民主青年同盟福岡県本部の副委員長で、後に夫となった金元珪さんもここの出身。「父が同胞のために頑張っている人物だと惚れ込み、私には何の相談もなく結婚を決めてしまった」と話す。「金なし、職なし、家なし、優しくもなし」と照れながら語るのだった。

 50年に結婚。5年後、総連結成の年に上京。夫は総連三多摩(現・西東京)の活動家として活動を始め、黄さんは古鉄商売などを手がけた後、61年からは女性同盟三多摩本部組織部長として活動を始めた。育ち盛りの3人の子どもの世話は、姑の手を借りた。2〜3泊の講習会や1カ月ほどの長期講習会も切り抜けることができた。

豊かなアイデア

平壌で開かれた「国際保険シンポ」に参加した黄さん(1985年、写真左)

 72年には、女性同盟三多摩本部委員長に就任。専任活動家8人を抱え、財政活動も切実になってきた。そこで、翌年には自動車の免許を取得。また、責任者として財政をよりしっかり把握するために通信教育で簿記2級の資格も取った。

 そうした近代的な活動スタイルに白羽の矢が立ち、77年からは三多摩金剛保険商会の創設を任され、5年後には社長に就任。ここでも、瞬く間に会社の業績をうなぎ上りにアップさせた。社員たちと一丸となって働き、代理店としての資格を「普通」から「上級」代理店に格上げさせた。こうした努力が実って、保険契約高も年毎に増え、会社設立10年には損害保険契約高が一億円を突破、地域の同胞社会にも大きく貢献した。そうした奮闘ぶりが高く評価され、85年9月、平壌で開かれた「国際保険シンポ」代表として選ばれた。

 何に対しても地道な努力を惜しまない黄さんは、多忙な日々の合間に、さまざまな資格に挑戦。57歳で宅建の資格をえ、さらに、日本教育習字連盟の段位も取得した。

 心血を注いで育てた会社を後進に委ね、今度は97年、新設された西東京同胞結婚相談所の初代所長を任された。黄さんの勤勉さと豊かなアイデア、同胞らの篤い信頼の表れだった。

 関東近県の同胞結婚相談所と連携して、見合い作戦を展開。4年間の所長時代に14組、約40年の活動家生活で23組のカップルを誕生させた。「彼らの間に生まれた子どもたちは私にとって孫と同じ。同胞との接触が大好きな私にはとてもやりがいがあった」と破顔一笑した。

 常に第一線でキャリアを積みかさねた道のり。自分の身を厭わず生活苦とたたかい、姑に仕え、慢性肝炎の持病を持つ夫の愛国活動を懸命に支え続けた40数年。自らも腎臓病を患い、02年からは週3回の人工透析を続けている。常に前向きな姿勢、愚痴も泣き言も口にしない。いまも金剛保険西東京支社相談役として、頼れる存在。

 「同胞たちが私を育て、信頼してくれたおかげだ」と感謝の気持ちを惜しまない。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2009.7.21]