〈強制連行の島 長崎・軍艦島ルポ-下-〉 歴史的事実を風化させぬ努力を |
恨を心に刻む
南越のバス停からそんなに遠くない場所に「南越名海難者無縁仏之碑」(裏面に昭和52年5月吉日 吉田義輝)が建っていた。〈長崎市野母町南越名〉この墓は、おそらく軍艦島から過酷な労働に耐えかねて逃げてきた朝鮮人が、この南越の海岸近くで力尽きて溺死し、その死体を埋葬・慰霊したものではないかと推測されていた。身元は不明だが、その遺体は4体であることがはっきりした(1986年の掘り返し調査)。さらに、軍艦島から野母半島方面に逃げようとして溺れ死んだ朝鮮人は40〜50人に上るという当時の証言者もいる(註4)。 その石碑は国道から7〜8メートルのところにあり、すぐわかった。私はストーンウォークコリアの仲間と一緒に清掃しながら、ここに眠っている彼らの「恨み」を心に刻み込んだ。その後、野母半島の権現山展望台から軍艦島、中ノ島、高島を眺望した。穏やかな波の音を感じながら、戦時中、石炭増産に血まなこになった日帝やそれに呼応した三菱鉱業が、朝鮮人を強制連行・強制労働させ、その結果、多くの朝鮮人が犠牲になったという歴史的事実を噛みしめた。 この「歴史の事実を広く後世に伝えていく」ことが大切であり、同時に、軍艦島観光ツアーの浮かれすぎに対して、きちんとした視点を持つ「朝鮮人強制連行の跡をたどるフィールドワーク」が、必要であることを痛感した。
「真の友好」前進を
野母半島南部の総合運動公園の一角に軍艦島資料館がある。2階の展示場にはすでに高校の統廃合が決まっているという県立野母崎高校の生徒さんたちが作った軍艦島の立派な模型が置かれていた。展示写真にも貴重なものが多くみられる。第二竪坑口桟橋の昇降階段を下りる坑夫たち、その昇降口に「明日もがんばりましょう」と書かれた横断書、坑道の写真、採炭現場で差し木を入れながら坑道を支える坑夫らの姿等々である。そこには地底1000メートルで働く人々の姿はあるものの、朝鮮人の姿は全くない。彼らは坑内で最も危険で、最もきつい採炭場所の仕事に従事したにもかかわらずである。 資料館の1階はレストランになっている。昼食時、そこの経営者に話を聞いた。 軍艦島が一昨年あたりから話題になりはじめ、野母町でも軍艦島をアピールする講演会が持たれたそうだ。戦後生まれの経営者は、軍艦島から朝鮮人が逃げてきて、溺れ死んだ遺体が南越から古里にかけて打ち上げられた話を知っていた。最近、高齢の親が話してくれたという。彼女は私たちが訪れた南越名の碑もご存知だった。 軍艦島観光が商業ベースで賑わう今こそ、私たちは「朝鮮人強制連行の事実に学びながら、その歴史的事実を風化させてはならない」と考えている。そうした中から、私たちと在日コリアンそして朝鮮半島の人々との「真の友好・親善」が前進するということを銘記すべきだろうと思う。(内岡貞雄、元社会科教員) ※ ※ 註4 長崎在日朝鮮人の人権を守る会編「原爆と朝鮮人」(第2集) [朝鮮新報 2009.7.6] |