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〈遺骨は叫ぶ-27-〉 北海道・鴻之舞鉱山

3000余人の朝鮮人を強制連行 突貫工事の過酷な現場、犠牲者構わず

固く閉鎖されている通気孔

 北海道北東部のオホーツク海に面して、紋別市がある。流氷や漁業で知られている。

 かつて紋別市には、全国一の金の生産量を誇った鴻之舞鉱山があった。アジア・太平洋戦争の時には、強制連行された約3000人を超える朝鮮人が働いていたが、その実態の詳しいことはよくわかっていない。

 鴻之舞鉱山は、1916年に発見された。「鉱況は素晴らしく、金の品位は1000分台ばかりか、中には肉眼で容易に見分けられる鉱石」(「北海道金鉱山史研究」)もあったという。だが小資本の鉱山は、事業資金に窮することが多く、売鉱して凌いだりしたが、それも限界に突き当たり、売山へと発展した。これに目をつけたのが別子銅山一山主義から、他の鉱業分野への進出を図っていた住友鉱業で、1917年に買収した。その後は、本格的な操業がはじまって産出量も高まり、大金山の基礎を固めていった。しかも、満州事変が始まると、政府は軍需物資の購入を中心とした海外支払いに充当するため、大量の金が必要となり、鴻之舞鉱山にも従来の2.4倍に当たる増産が割り当てられた。

 探鉱や採鉱のため、諸設備の工事を進めていたが、日中戦争が始まるとその資材も順調に届かなくなった。また、鉱夫の応召も多くなり、労働力も不足してきた。そこに増産の要求である。鉱山では、冬季の農閑期を利用した農民を中心とした産金奉公隊や、商工業従事者を集めた鉱山報国隊などを道内からだけではなく、道外の青森や秋田からも動員したがそれでも不足し、朝鮮人連行者を使用した。

 鴻之舞鉱山への第一陣は、1939年10月「6日、小樽へ入港した512名中、302名が、鉄道・バス・トラック・徒歩にて翌日に到着し、第1、第2協和寮に収容された。その後、1942年9月22日、第23陣として45名が到着するまで、合計2589名が強制連行され、7つの協和寮に収容されて、強制労働をさせられた」(「道都大学 紀要教養部」第9号)。このほか、4カ所の支山に138人、鴻之舞鉱山の坑外の作業を請け負っていた地崎組(現株式会社地崎工業)には「550名の朝鮮人の強制連行が承認され」(「鴻之舞鉱山」)ているので、3277人が来ている。1942年6月には、坑内で働く坑夫数が逆転し、日本人の2倍もの朝鮮人が入坑していた。

雑木林になった旧鉱山内にいまも残っている煙突

 鴻之舞鉱山に連行された朝鮮人は、最初の頃は20代の最も働き盛りの若者がいちばん多く、次が30代であった。だが、その後は若者の数が減り、高齢者が多くなった。朝鮮でも若者が枯渇してきたからだが、15歳の少年とか、55歳の年配者も来ている。また、連行者のほとんどが農民で、鉱山などでは働いたことのない人たちだった。その人たちが、「2、3日のお座なりの坑内教育を受けただけで、基本的にはそのすべてが危険度の高い坑内労働に従事させられた」(「北海道金鉱山史研究」)のである。しかも、朝鮮人たちの労働は「例外なく坑内作業で、いわゆる採鉱と運搬(トロ押し)であるが、なかでもトロ押しが一番多いようである」(北海タイムス、1941年5月16日)と伝えている。

 地崎組の下請けをした大塚組では、150人の朝鮮人が働いていたが「彼らは布切れ一枚腰に巻いて藁草履を履いただけの姿で、廃液沈殿池の築堤工事をやっていました」

 その堤防の材料は、左右の山を掘り崩した岩石で、その岩石をトロッコに積んで運んだが、「足を踏み外して沈殿池の中に落ちて死ぬ事故もよくあったが、会社側はそんな犠牲は当然だといって、かまわず突貫工事を続けさせたんです」(「朝鮮人強制連行・強制労働の記録」)と証言している。

 鴻之舞鉱山で過酷な生活や作業をしたのに、病死した朝鮮人は17人と少ない。それは「治療不能と判定されると、次々と帰国送還させたので、帰国後死亡者を算入すれば」(「道都大学紀要 教養部」第9号)かなりの死亡者数になると推定されている。死亡原因は、肺結核が7人と最も多く、他は心臓病、感冒、法定伝染病である。だが、治療不能という重い病気になった朝鮮人を送還させるという責任のがれをしたのは、鴻之舞鉱山が最も多いのではないだろうか。

 鴻之舞鉱山のもう一つの特徴は、朝鮮人の逃亡が非常に多いことだ。支山を含めて479人が逃走し、111人が取り押さえられたが、このうち23人が再び逃走し、21人が成功している。待遇や強制労働がいかにひどかったかを逃走の多さが物語っている。しかし、逃げているだけでなく、鉱山のやり方に抵抗して280人も参加した紛争を始め、たびたび闘争をしているのも特筆される。

 また、災害死亡者は30人で落盤や斜坑への転落などが原因だ。鉱山にあった鴻恩寺の沢田住職は、「飯場の朝鮮人労働者は、死んでも葬式はやらなかったし、どこに埋められたのかもわかりません」と語っている。現在は、鉱山用地に入れないので、埋めた場所を捜すことはできない。

 1943年の金鉱業整備令によって、鴻之舞鉱山は「休山保坑鉱山」になったので、朝鮮人連行者は4月に全国の住友系の鉱山へ配転になり、新しい地で再び過酷な労働についた。 (作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2009.7.6]