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〈強制連行の島 長崎・軍艦島ルポ-中-〉 海で力尽き溺死した逃亡者

軍艦島に上陸

1950年代後半頃、野母町の軍艦島資料館

 長崎港ターミナルから少し東寄りの岸壁から49人乗りのチャーター船に乗り端島に向かう。途中、船内放送で軍艦島の説明があるが、雑音混じりでよく聞き取れない。およそ40分で島に到着した。桟橋を渡り、かつて強制連行された朝鮮人が「地獄門」と呼んだ門を通って島内に入る。

 筑豊地方から転居して小学校時代から島で育ったという説明者の話を聞く。

 1916年建設の国内最古の7階建て(30号棟)が、小・中学校の体育館と比べ、半世紀以上も古いにもかかわらず耐堅性がいいとか、丘の上の役員社宅は風呂やトイレがあるのに一般鉱員は共同トイレや大衆浴場しかないなどの話だった。ただ、坑夫らが今から採炭現場に向かう上りの階段で、600メートル以下の地底で仕事を終えて階段を下ってくる坑夫たちと出会い、そこで両者は対照的な表情を見せるという話は、危険できびしい炭鉱の仕事の一端をみたような思いがした。

端島が三菱鉱業に買収されたのは1890年である。その後、閉山まで80余年間の炭鉱の島としての歴史を歩んだが、強制連行された朝鮮人がこの島へ送られてくるのは39年〜45年にかけてだった。当時、強制連行で強制労働させられた朝鮮人は約500人だった。全体の炭鉱労務者が約1800人といわれるので、朝鮮人坑夫は約3分の1弱の割合である。

1916年に建てられた7階建ての鉄筋アパート(右から2人目が筆者)

 朝鮮人が住まわされた建物は、冬の荒波が押し寄せる波しぶきがかかり、年中、日当たりが悪く湿気の高い劣悪な場所で、しかも、狭い室内に7〜8人が押し込まれて、一人一畳にも満たないほどの狭さだった。このような「監獄島」を脱出するには、海に飛び込んで逃げるしか方法はなかった。前述のように、高島は同じ三菱の経営なのでそこに逃げてもダメで、数十人といわれる朝鮮人の脱出者は中ノ島を経て野母半島の高浜、古里、南越をめざして必死の思いで泳いだに違いない。しかし、この海域は野母半島南部から北の香焼島への流れがあり、それを横切って泳ぎ切るのは並大抵のことではなかった。多くの朝鮮人が、途中で力尽き、溺れ死んだという。

 私たち一行の軍艦島の上陸はわずか50分足らずで、急がされながら船に乗せられた。そこでの説明は、日本人坑夫や家族に終始した悲喜こもごもの話ばかりであり、「日本と朝鮮半島や中国の過去の歴史に学ぶ」ものは全く出なかった。

溺死体を火葬

 長崎の市街地を抜け、香焼島を右手にみながら国道499号線を下る。黒浜付近に来ると、斜め前方に軍艦島が見えてきた。ここからの軍艦島はややかすんでいた。その後、国道を南下すると、やがて、野々串港があり、さらに高浜海岸まで来ると、軍艦島の東側一帯がはっきりと、しかも、近距離に見えた。高浜海岸の白い砂地を歩くと年代の石炭産業全盛期に、軍艦島から海水浴に来た家族連れや仲間の賑やかな声が響いてくるような感じがする。砂浜付近で海亀の産卵場所を移していた役場の人たちの中に、高浜で瀬渡し船を営んでいる方から話を聞くことができた。それによると、戦時中、高浜海岸の北の岬付近に溺死体があがり、その当時岬にあった火葬場で火葬、その遺骨を無縁仏の墓の中に安置し慰霊したという。ところが、今から十数年前にそれらの遺骨を全部、南方の観音寺付近の墓地に移したそうだ。その人自身がその作業を一緒にしたと言われるので、今後、この方に詳細な聞き取りをしてみる価値はありそうだと思った。(内岡貞雄、元社会科教員)

[朝鮮新報 2009.7.3]