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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちE〉 自ら「女君主」と称する−貞純王后金氏

改革に逆行 政敵を迫害

15歳で老王に嫁ぐ

英祖 肖像画

 貞純王后は、朝鮮王朝21代王英祖(1694〜1776)の二人目の正妃である。英祖66歳、貞純王后15歳という朝鮮開国以来一番の歳の差カップルであった。

 1759年6月9日に正式に王妃に選ばれ、同じ年の6月22日に婚礼を挙げるというスピード結婚であった。13日間で「王妃教育」を受け、それを自分のものにしなければならなかったことを思うと、当時の貞純王后の利発さと血の滲むような努力、そしてその根性がうかがわれる。こんな逸話がある。英祖が王妃候補たちに「この世で一番深いものは?」と質問すると、他の候補たちは「山が深い」「川が深い」などと答えたが、貞純王后は「人の心が一番深い」と答えて英祖を感心させたという。また、貞純王后の衣服をあつらえる際、採寸をしていた女官が彼女に「後ろを向いてください」と言うと、「そなたが回りこめばよいではないか」と言い放ったという。後の女君主を自称する彼女の気の強さと、揺るぎのない自尊心を垣間見ることができるエピソードである。

老論派の最強硬一門

英祖と貞純王妃稜

 当時の最大政治派閥老論の中でも、貞純王后の実家である金氏家門一族は最強硬派であった。自分よりも10歳年上の世継の王子の悪い噂や失敗などを王の耳にしばしば入れ、謀反の疑いを匂わせた貞純王后の暗躍もあり、老論勢力とは政治的に方向性が違う世継である思悼世子は陰謀により排されてしまう。それも大きな米びつの中に閉じ込め、餓死させるという方法であった。英祖の彼女に対する溺愛ぶりが想像できる。こういったいきさつから、貞純王后は日頃から英祖の孫、すなわち思悼世子の子である王世孫正祖とは関係が良くなかったという。もちろん政治的派閥の影響も無視できない。

 1776年、世孫正祖が即位すると徐々に老論は影を潜め、それと同時に貞純王后は昌徳宮に隠居するようになる。31歳という若さである。それから24年間、彼女は機を窺い死んだように過ごす。改革君主であった正祖とは政治理念も宗教観も違い、また父親の敵として復讐される可能性もなくはなかったからである。

陰謀、術策、懐柔、殺人

英祖の婚礼

 1800年、正祖死後即位した純祖は11歳であったため、貞純王后は大王大妃(王の祖母)という名分で摂政政治を始める。55歳であった。この間彼女は自らを「女君」「女主」と称し、臣下に忠誠誓約をさせ、実質的な国王としてすべての権限と権威を行使した。自分が犠牲になり背負っていたはずの金氏一族も、彼女の前にひれ伏している状態であったはずだ。

 彼女が行ったことに対する歴史的評価はさておき、15歳で66歳の老人に「嫁がされ」、子をもうけることもできず、涙と共に流れていった少女の長い長い時間を思うと、何かに復讐するかのような半生に驚かされる。実に長い間、忍耐強く、彼女は老論勢力のために何でもやった。陰謀、術策、懐柔、そして直接手は下さないまでも殺人まで。

 正祖は天主教に比較的寛容であった。「正学が明るければ、邪学は廃れる」と言った正祖は、外国からの文化や宗教の流入についてあるものは積極的に取り入れ、あるものは黙認している状態であった。だが、正祖の死後貞純王后は、政敵が天主教信者に多くみられることから、これを強硬に弾圧、1801年にはカトリック史でも稀に見る信者300人以上を処刑するという「辛酉迫害」事件を起こす。1801年1月10日、貞純王后は天主教厳禁に関する宣旨を下すに至る。

 「先王は正学が明るければ邪学は廃れると申されたが、(略)邪学はとどまるところを知らない。(略)邪学は父母もなく王もない。したがって人倫は乱れ、畜生のようになり(略)蒙昧な民は徐々に邪教に染まり、まるで水に溺れる子どものようである。(略)よってこれを厳しく取り締まり(略)厳禁した後にもこれを守らない者があれば厳罰に処す」(「朝鮮王朝実録」純祖2巻)

 また彼女は密告を大いに奨励した。その結果、惨たらしい虐殺に発展し、朝廷から政敵を一掃するのに成功する。

 だが、その後、全国各地で大火災が起こる。天災が起きても王の不徳が原因とされる時代、ましてや「王のように」権勢をふるう「女」が国政に関わるから…という声を気にしたのかどうか定かではないが、純祖が親政を布くようになると、彼女はまた隠居する。4年間の摂政であった。

 貞純王后金氏は自らが老論派閥の牽引役として、正祖が推し進めようとした改革政治を全面的に否定し、儒教的国家としての統治秩序の確立を強調するあまり、朝鮮をより保守化させ閉鎖的な国家に立ち戻らせたといえる。

 15歳で家の犠牲になり嫁がされ、女性でありながら子をもうけることができず、自らを王と名乗り、政治の前面で権勢をふるうという、おおよそ儒教的観点からは「模範的な女性」ではなかった彼女が、なぜそこまで儒教的国家観にこだわったのか、真に「家」に対する忠誠心のみだったのか。興味深いところである。彼女もまた内面が引き裂かれていたのかもしれない。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.7.3]