〈強制連行の島 長崎・軍艦島ルポ-上-〉 多数の朝鮮人犠牲者 今は観光スポットに |
かつて海上炭鉱として栄えた「三菱高島鉱業所端島坑」(1974年1月に閉山)の端島(別名 軍艦島、現在は長崎市所有)が4月22日から一般公開された。私も5月に上陸して島の一部を歩いた(註1)。また、今年3月に高島(長崎市)、5月下旬には野母半島(長崎市)をフィールドワークする機会があり、それぞれの場所から軍艦島を眺めることができた。軍艦島は昨年9月、九州・山口の近代産業遺産群で世界遺産の暫定リスト入りをして以来、長崎市を中心に新たな観光の目玉にすべくその宣伝が喧しく続いている。しかし、そこには戦前に行われていた「暴力的な納屋制度」や敗戦まで過酷な強制労働をさせられた「朝鮮人や中国人の強制連行」のことは全く語られることはない。 ここでは、朝鮮人強制連行の足跡をたどりながら、高島・軍艦島・野母半島のフィールドワークを通して感じたことを報告する。 伊王島〜高島炭鉱跡
長崎港大波止ターミナルから定期連絡船に乗り込んだ。平日にもかかわらず船内はかなりの乗客がいたが、ほとんどの人はリゾートアイランドで売り出し中の伊王島で下船した。この島もかつては炭坑で栄えたところである。41年に長崎鉱業株式会社によって開坑され、太平洋戦争中は朝鮮人を強制連行し強制労働で石炭増産にあたらせた。その数は、炭鉱労働者(女性を含む)の4分の1以上にのぼっていた(強制連行された朝鮮人の数は約1000人をかぞえる)。しかも敗戦直後、日本政府の無責任さは帰国を熱望する朝鮮人に多くの犠牲者を出した。「45年9月、帰国を急ぐ朝鮮人の人びとは、折りからの枕崎大型台風の荒波で帰国船が途中転覆、水死する朝鮮人も多かった。今の香焼島の三菱造船の百万トンドックにある巨大クレーン付近には、おびただしい数の朝鮮人の水死体が打ち上げられていた」(註2)。 ガランとなった船内で、柴田利明さん(NPO法人岡まさはる記念長崎平和資料館)に高島炭坑の歴史を話してもらう。高島炭坑の国有払い下げは後藤象二郎に、その後、仲介者として福沢諭吉が乗りだして三菱の創始者、岩崎弥太郎に売り渡したこと等々、興味つきない話であった。やがて船は高島に到着した。長崎港から約40分経っていた。
三菱鉱業の城下町
港は島の北東部にある。高島は三菱鉱業の城下町といわれるだけあり、岩崎弥太郎の大きな銅像が周囲の穏やかな景色とは似つかわしくない様子で建っている。私たちは海抜120メートルの権現山を右手に、炭改造したアパート群を左右に見ながら歩いた。高島炭坑最盛期は島の人口は1万人以上であったが、1986年の閉山後は人口減少が続き、今は500人程度になっている。そのためアパート群には空き家が目立つ。1920年に埋め立てが完成し、高島と陸続きになった二子島には小さい丘に巨大な風力発電が一基ゆったりとまわっていた。 この埋立地の低湿地帯に強制連行された朝鮮人飯場があり、当時は「朝鮮人納屋」と呼ばれていた。 1941年から敗戦まで、全従業員の約3分の1は朝鮮人労務者で、その数は2000人近くにのぼっていた(註3)。
1881年から操業した三菱鉱業所高島炭鉱竪坑跡を右奥に、南岸の堤防から軍艦島と中ノ島が数キロ先に見えた。
中ノ島は坑内の出水が激しかったため、操業わずか9年目で閉山、その後は軍艦島の火葬場として利用された。右に位置する軍艦島からは強制連行された朝鮮人がこの高島に逃げてくることはなかった。その理由は潮流の関係もあるが、高島は何と言っても同じ三菱のヤマであり、たとえ無事にこの島に泳ぎ着いても監視人らに発見される可能性が大であったからだ。やむなく、朝鮮人たちは東方の野母半島を目ざし命をかけて泳いだのである。 その後、私たちは端島炭鉱の閉山の時に、端島の泉福寺に安置されていた朝鮮人遺骨がすべて移されたという高島の供養塔(千人塚)の墓地を訪ねた。権現山山腹を登り、多くの墓の間を通り抜け、そこから隔絶されるように少し下った場所にその供養塔はあった。 幼年期を高島で過ごした柴田さんは、子どものころ、この付近が遊び場であったそうだ。千人塚の納骨室に首を突っ込んで中を見たら、たくさんの骨壷が並んでいたといわれた。1925年〜45年の「火葬埋葬許可証」によると朝鮮人122人の遺骨のうちの相当数ということになる。 高島の金松寺に預けられた分骨壷と名簿には朝鮮人の名前は一人も記載されておらず、この供養塔に朝鮮人の遺骨が眠っていることは間違いない(「岡まさはる記念長崎平和資料館の説明による」)。その後、山を下り海岸沿いを歩く。やがて、船着場近くの石炭資料館にたどり着いた。その資料館前に実物50分の1等大の精巧に造られた軍艦島の模型が設置されていた。軍艦島の北端部(戦後は隔離病棟68号棟)に朝鮮人飯場があって、モルタル造りの納屋には多くの朝鮮人が押し込められたそうだ(1939〜1945年)。(内岡貞雄、元社会科教員) ※ ※ 註1 5月9日(土)作家佐木隆三さんと彼の作品の舞台をたどるツアーに49人が参加、私もその一人に加わった。 註2 長崎在日朝鮮人の人権を守る会編「原爆と朝鮮人」(第2集) 註3 同上 [朝鮮新報 2009.6.29] |