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〈遺骨は叫ぶ-26-〉 秋田・尾去沢鉱山

虐待で多くが死亡、「墓も遺骨もない」 「身体検査して、健康な人ばかり連行」

今も残る尾去所鉱山の巨大な煙突

 秋田県の県北は鉱山地帯と呼ばれるほどたくさんの鉱山があった。その中で最も古いのが尾去沢鉱山(鹿角市)で、口碑では708年に発見されたという。その後所有者が転々と代わり、1889年に三菱鉱業の手に渡った。盛況期には日本の四大銅山の一つといわれたが、多くの事故が起きている。なかでも1936年に発生した鉱沢ダムの堤防決壊は悲惨なもので、死者336人、重軽傷107人、行方不明44人を出した。

 復旧工事中に再び決壊して、死者9人を出したが、「鉱山側技術陣の過信と甘さによる事故」(「秋田県警察史・上」)といわれた。

 この事故の復旧工事中に準戦時体制に入り、軍需省から大幅な増産を求められた。1943年から尾去沢鉱山の事務所に勤めた吉田悦郎は「尾去沢鉱山は戦争景気もあって大変に栄え、鉱山で働く人が1万人を突破したこともあった。たくさんの勤労奉仕隊も来たもので、100人とか200人の単位で出入りするので、上司から『コメだけは不足しないようにしろ』と言われ、幽霊人口をたくさんつくり、コメの在庫を確保した」と言っている。

 だが、多くの勤労奉仕隊を入れても労働力が不足した尾去沢鉱山に、いつごろから朝鮮人連行者が来たのだろうか。尾去沢鉱山の建築を専門に請け負っていた伊藤組(大館市)の越前喜代治尾去沢現場主任は、「尾去沢鉱山に朝鮮人が来たのは1943年のことで、この時には200人だった。朝鮮人を入れるため、大きな2階建ての学校のような長屋を突貫工事で建てた。2階に朝鮮人が住み、1階は作業場と食堂だった」という。

朝鮮人・中国人も働いた選鉱場跡

 朝鮮人を連れにいったのは、鉱山で相撲の稽古をつけていた成田宗蔵で、警察を退職して鉱山に入った2人と一緒だった。その年月も、どの港に着いたかも思い出せないが、「仁川に行くと、朝鮮人が入れられている建物があった。日本の兵隊とか警察が朝鮮人の家に行き、夜中に起こして連れてきた人たちだと言っていた。大きな建物がいくつもあり、そのなかにいっぱい入っていた。朝鮮人を釜山港の沖にある島へ連れて行き、身体検査をして元気な人ばかり連れてきた」と証言している。

 尾去沢鉱山に連行された朝鮮人の数ははっきりしていない。鉱山の労務係だった児玉政治は「朝鮮人は3800〜4000人はいた」と言っている。連行されてきた金海龍は「終戦の時に朝鮮人は2500人ということだった」という。日本の旧厚生省の「朝鮮人労務者に関する調査」(秋田))には、官斡旋・徴用で687人の名前が記載されている。ほか北鹿土建尾去沢事務所に34人が来ている。多数の朝鮮人が来ていたことがわかる。

 朝鮮人が収容されたのは、新山寮、至誠寮、新堀寮など5つで、1部屋に6人が入り、一人分が畳一枚だった。掛布団には海草が入っていたが、1カ所に固まるので役に立たなかった。敷布団は、南京袋に草を入れていた。これでも春から秋までは良いが、冬は寒くて大変だった。寮長は、仕事から帰って飯を食べると「寝ろ、寝ろ」と叫んでいたが、寒さと空腹で眠れなかったという。

 仕事は、坑内と坑外に分かれたが、3交替だった。坑内には見張所があり、日本人の監督が5〜6人いて、一日に2〜3回見回っていた。「わたしが掘ったところは、むかし掘ったところの堀直しで、ハッパをかけると柱や梁が腐っているので、ばたんと落ち、いつかは死ぬなと思った。怖いので坑外の仕事をしたいと申し出たが拒絶された」(金海龍)という。

 危険な作業と同じく朝鮮人を苦しめたのが、粗悪な食料と量の少なさだった。

 ご飯は出たが、量はどんぶりに6分目くらい。おかずはサメの頭を切って皮がついたまま煮たのがよく出た。鼻にツンときて食えるものでなかった。作業衣はボロボロになったのを着ていた。昼も夜も同じものを着ているので垢でつるつるに光り、シラミや南京虫が湧くようについた。夜は血を吸われるのでかゆくて眠れなかった。仕事が厳しいうえに食糧が少ないので、寮から多くの人が逃げた。しかし、空腹で地理がわからないため遠くへ行けず、1〜2日後に地元の消防団や青年団に捕まり、殴られたうえに寮へ連れ戻された。寮では見せしめに皆の前で土間に座らされて棒を足に突っ込み、金槌で膝を叩かれ、悲鳴をあげて気絶した。

 尾去沢鉱山で死んだ朝鮮人も多い。旧厚生省が調査した名簿には、死亡者9人とある。公傷1人、病気1人のほかは死因を書いていない。朝鮮人の証言では、この他に落盤で少年が2人と鉱石を積んだ車の下敷きになって1人が死んでいる。まだ毒ぜりを食べた2人が狂ったように苦しんで死んだ。遺骨は円通寺に預けたというが、秋田県朝鮮人強制連行真相調査団の調査に対して、住職は「墓も遺骨もない」と答えている。

 朝鮮人は、日本の敗戦後も働かされた。鉱山内にある東京捕虜収容所第6分所へ8月28日に米軍のB29爆撃機が救援物資を投下したのを見て日本の敗戦を知ったが、その時には鉱山の現場監督は逃げて、誰もいなかったというからひどい話だ。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2009.6.1]