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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちC〉 最悪のサイコ?−昭恵王后韓氏

男尊女卑の「内訓」編さん

嫁を廃位、賜死

「王妃と御世継」(南の文化財保護財団主催・景福宮での宮中生活常設再現)

 「朝鮮王朝最悪のサイコ王妃」。ドラマ「王と私」の視聴者が、ドラマの感想と共に書いたブログの一文である。なぜなら、ドラマでの昭恵王后は朝廷の政治勢力と結びつき、幼くして即位した息子、朝鮮王朝第9代王・成宗を圧迫、嫁である尹氏をいじめ、ついには廃位させたあげく息子に処刑(賜死−毒薬を下賜)させてしまう、血も涙もない皇太后として描かれているからだ。

 実際、朝鮮王朝実録や当時の記録である己卯録(1638、金})を見ると、嫁姑問題はあったようである。成宗が廃妃尹氏の実家での様子を窺うよう内侍(宦官)に命じると、これを買収、「悔い改めず、王子に復讐させると言っている」との嘘の報告をさせている(己卯録補遺)。

 廃妃尹氏の廃位理由は「内助の功がないばかりか嫉妬深く、…密かに毒薬で宮人(側室)を殺そうとする陰謀が明るみに出た」(「朝鮮王朝実録」成宗実録10年6月2日)からであった。真偽はともかく、尹氏はどんな手を使っても「除去」しなければならない対象だったのだ。当時成宗は 22歳だった。

「孝婦」であり「暴嬪」

 昭恵王后韓氏自身は朝鮮朝7代王世祖の長男に嫁し、2男1女をもうけ、舅と姑によく仕えたという。世祖は彼女を「孝婦」と褒めたたえた。21歳で夫を亡くしたが、子らを立派に育てるため腐心、その厳しさは、世祖をして彼女を「暴嬪」と呼ばしめたほどである。

昭恵王后韓氏の御陵

 昭恵王后韓氏は稀有な存在であった。父は朝鮮と明の外交パイプであり、明から官職を与えられ、朝鮮の宮廷で重職を歴任した屈指の名門。また叔母は明王の後宮であった。

 彼女は学識が高く、当時女性たちの教育書であった「烈女」や「小学」「女教」「明心寶鑑」などを熟読、それらを編纂、整理し、「朝鮮の女性のため」の教育書「内訓」を漢文で書きあげる。全7章3巻からなるこの本は、1章「言葉使いと行い」、2章「父母に孝行」、3章「婚儀の礼義」、4章「夫婦」、5章「母としての行い」、6章「親族との付き合い」、7章「清廉と倹約」と、間違いなく女必従夫、三従之道、七去之悪など男性中心の儒教思想をそのまま反映していると言える。各章ごとに40種余りの経典と50人余りの行状を引用、女性の行いの実際や規範を説いている。また、ハングルに翻訳させ、その翻訳文の中に注釈を入れ読みやすくしている。「内訓」は、親孝行や忠臣、烈女の中から行いが飛びぬけている人々の話を挿絵入りで書いた「三綱行実図」と共に、当時の女性教育の基本書となった。

 「内訓」には姑と嫁の関係について興味深いくだりがある。

 「嫁が(姑を)尊敬せず孝行でなくても、憎んではいけない。姑として教えなければならない。教えても聞かないようなら叱るべきである。叱っても聞かないようなら叩くべきである。何度叩いても改めないなら、嫁を追い出すべきである」(「内訓」)

燕山君からの報復

「内訓」原文

 昭恵王后韓氏は自分が編さんした「内訓」の内容通りの儒教的女性観を貫こうとしたようだが、それは唯一幼くして王位を継いだ息子のためではなかったろうか。「内訓」を読むと、男性が書いたのではなかろうかと思えるほど、徹底した男尊女卑ぶりである。名門の貴族出身であり、当時の権力の構図の真っただ中で生まれ育った彼女は、誰よりもその権力の持つ恐ろしさを理解していたはず。夫を早くに亡くし、陰謀渦巻く宮廷のただ中にあって、幼い王である息子を守る武器として逆説的にこの「内訓」を方便としたのではないだろうか。

 彼女は誰よりも声高に儒教思想を叫んだが、儒教が良しとしない仏教に傾倒、経典を2805巻も実際に刊行し、寺院の建立にも尽力している。引き裂かれた内面は、彼女自身の複雑さを示しているのではないだろうか。

 晩年は不幸にも、廃妃尹氏を死に追いやった張本人として実の孫である廃王燕山君から報復を受ける。即位した孫の暴力の末病が悪化、あっけなく世を去る。1504年4月、68歳だった。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.5.9]