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〈遺骨は叫ぶ-25-〉 青森・大湊海軍警備府

手作業でドック建設、20余人が死亡 帰国時「浮島丸」に乗船、犠牲者多数
 

「浮島丸」が出航した大湊港。むつ市には「浮島丸」を伝えるものはない

 本州の最北端、青森県下北半島は、マサカリの形に似ているので、マサカリ半島とも呼ばれている。また、下北半島には毎年のように冷たい霧まじりのヤマセ(偏東風)が襲い、農作物が被害を受けるので、青森県内では最も冷害が多発するところでもある。

 アジア太平洋戦争の時には、下北半島には北方警備を行う大湊海軍警備府が大湊町(現むつ市)に置かれていた。大湊海軍警備府は、開戦時には約6500人(軍属を含む)の兵員を擁していた。

 開戦当初は破竹の進撃を進めてきた日本海軍も、1942年6月のミッドウェー海戦の惨敗から形勢が悪くなった。大湊海軍警備府の担当区域である北方領域も、1943年5月にアッツ島守備軍の玉砕を受けて、北方の国防ラインが千島列島に後退した。レイテ決戦の失敗、フィリピンの喪失と戦況はいっそう悪化し、大本営は、1945年1月に米軍の上陸を想定した本土決戦体制を発令した。

 その後大湊海軍警備府では、兵員が5〜6万人に増えていたが、「警備府の計画は、この5、6万の将兵が補給なしに3カ月間、敵の攻撃を防ぐことを目標としてたてられていた。5万余の大軍が3カ月の攻防戦を戦える食糧、武器、弾薬となると莫大な物質である。大本営は、本土戦決戦用の物質として、それらを輸送船で大湊に送り込んできた」(「浮島丸釜山港へ向かわず」)。だが、米軍の攻撃が激しくなって、平地の倉庫にこの物資を収納するのは難しくなり、貯蔵所として隧道が必要になったが、労働力が不足してつくれなかった。直営で工事を担当した土建会社は、労務係を朝鮮に派遣して朝鮮人を連行したが、その人数は今もって判っていない。4000〜5000人ぐらいと関係者はいうが、1万人近いとする証言もある。日本に連行された朝鮮人たちは、物資隠匿の隧道、樺山飛行場の新設、大間鉄道の工事などに使われた。
 

犠牲者の冥福を祈って海に献花(舞鶴港で)

 大湊海軍警備府の工事で働いた朝鮮人の実態ははっきりしていないが、いくつかの証言で確かめたい。「住居は掘っ立て小屋で、明かり窓もなく、昼でも真っ暗でした。大きさは二間半ぐらいの長さだった。平土間には、草や藁を敷いていて、敷き布団はなく、その上に寝ていた。寒いときは、体をエビのようにしていた。食べ物は、麦は良い方で、豆や芋で、米は底の方にほんの少し入っていた」(「アイゴーの海」)。

 「海軍の飛行場を作っていた樺山まで歩いていくのでしょうが、一列縦隊で田名部高校の方へ向かっていたが、冬なのに長靴も履かず、地下たびで夏服のような薄いものを着て、外套などは着ていなかった。体は細く、フラフラとして歩いていた」(高橋力男)

 大湊海軍の1万トン乾ドックの工事をしたのは朝鮮人で、「今と違って土木機械がない時代だったから、スコップ、ツルハシで土を掘り、トロッコで土を運んだが、傾斜地ではトロッコを押し上げねばならず、ずいぶん難儀な作業でした。朝鮮人は、近くの宇曽利川の飯場から徒歩で通ってきてましたが、雨が降ってもカッパなどもちろん着るわけでなく、その格好は惨めなものでした。なんでもこの工事中に20人くらいの朝鮮人が死亡し、ドックの後背地に慰霊のために石を置いて目印にしていました」(畑中源一郎)。

 「朝鮮人を監督する人がすごい奴で、長い棒の先に釘を刺して、列を乱す者をその棒で突っついていました。着ているものは粗末なので、履物は擦り切れた地下たびはいい方で、ほとんどの者が素足にセメントの袋を履いて、縄でそれをぐるぐる巻きにしていました」(佐藤三郎)

 こうした証言でもわかるように、大湊海軍警備府に連行された朝鮮人たちは、過酷な生活と労働に明け暮れていた。しかし、1945年8月15日に日本が敗戦になった3日後の8月18日に「大警司令部では軍民の雇用に関係なく、下北半島に動員されている朝鮮人を帰国させる方針を決定した」(「大湊警備府の終焉」)が、この早い時期になぜ下北半島の朝鮮人を帰還させようとしたのか。謎はいまだに解明されていない。帰国便の情報は、瞬く間に伝わり、遠く三沢や青森方面からも大湊・菊池桟橋に駆けつけた。

 海軍特設運送船「浮島丸」(4730トン)は、21日から乗船を開始し、22日夜10時すぎに大湊港を釜山に向けて出航した。「浮島丸事件の記録」では、この船に乗船したのは、朝鮮人3735人、日本人乗組員225人とあるが、6000人以上は乗ったという乗船証言者もいる。

 釜山へ向かっていた「浮島丸」は、途中で進路を変え、京都府の舞鶴に入港した。米軍が日本政府に「11月24日午後6時以降は、一切移動を禁止する」と要求したため、艦長は情報確認のため寄港したという。「浮島丸」は微速で航行中、下佐波賀沖で大爆音をあげ、艦は真っ二つに折れて沈んだ。艦と運命をともにした犠牲者は、朝鮮人524人、日本人乗組員25人と発表されたが、「乗船名簿から生存者を差し引いたもの」(「浮島丸事件」)といわれ、死者はまだ多いという。この事故は、「触雷説」と「自爆説」が出ているが、その真相はわかっていない。また、1992年に遺族たちが日本政府に謝罪と損害賠償、遺骨返還を求めて提訴した。

 2001年に京都地裁は「安全配慮義務違反」は認めたが、「公式謝罪の請求」などは却下した。

 「浮島丸事件」の戦後は、まだ終わっていない。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2009.4.6]