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〈朝鮮の風物−その原風景 −18−〉 婚礼風景

家父長制と「嫁とり婚」の定着

 民族衣装で着飾った新郎、新婦が馬、輿に乗り、お供に伴われて野道をゆく婚礼図は、牧歌的で心和む原風景のひとつだが、いまは映像や風俗画でしか見ることができないノスタルジックな世界である。

 こんにち同胞社会での婚礼は、式場を借りた結婚式が定番である。挙式は簡素化され、手際よくとりおこなわれる。変容する社会情況に適応した合理的な方法として同胞に親しまれている。

 ひと昔前までは、婚礼挙式は新婦の家で開くのが普通だった。この日のために近所のアジュモニが集まってブタ、ニワトリをつぶし、数日をかけて料理を準備し、当日は親せき、知人はもちろん、向こう三軒両隣、町内の老いも若きもが見守るなか、婚礼の儀がおこなわれたものである。筆者も幼少のころ、そんなお祭り騒ぎのような婚礼風景を見て育った。

 ところで、女性が結婚することを「시집간다(嫁にいく)」(★家は夫の家)というのに対して、男性の場合は「舌亜娃陥」というのが普通である(丈家は妻の家のこと)。このいいかたの違いは、実は朝鮮には二つの婚姻風習があったことのなごりだという。

 朝鮮には、古来より「婿とり婚」という風習が基本としてあったらしい。「男帰女家」とよばれるこの「婿とり婚」とは、男性が妻方に婿入りし、子どもが一定の年齢に達した後に実家に戻る婚姻風俗をいう。高句麗の「婿屋」がそれにあたるそうだ。「장가간다」は、この風習のなごりだ。ただ、これが「ムコ殿」「マスオ」かというと、必ずしもそういうことではないらしい。

 ところが高麗を経て朝鮮朝時代に至って、支配層が家父長的統治理念に反する「婿取り婚」を激しく非難、中国風俗の影響をうけた「親迎」とよばれる「嫁とり婚」を国策として採り入れた。この「嫁とり婚」は、婚礼は妻方で挙げるが、数日後には夫方の家に入るというもので、この「新行」が「시집간다」である。

 しかし支配層の思惑とは裏腹に、高麗から朝鮮朝時代の中期にいたるまで、伝統的な「婿とり婚」制はごく一般的婚姻形態として根強く存続した。たとえば栗谷・李珥の父李元秀が、妻方の家を辞して妻子を伴ってソウルの実家に戻ったのは、婿入りから20年後のことである。また朴趾源、丁若繧煬牛・後の一時期、妻方の家に住んでいる。

 「嫁とり婚」が大勢をなすのは17世紀から18世紀にかけて、性理学が政治理念、生活倫理の原理としてさらに徹底され、朱熹の「家禮」の生活慣習化を強要されるようになってからといわれる。この制度の導入によって家父長的男性中心社会はより強固となった一方、女性の地位は零落した。忌まわしい民族史の断片である。(絵と文 洪永佑)

★=女へんに思う

[朝鮮新報 2009.3.27]