top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 「江戸川の顔」、ネットワークの要−尹貞淑さん

祖国一筋の道で歩む幸せ

 東京・江戸川同胞生活相談総合センター1階に併設されたデイハウス「うりまだん」。

 この地に生まれ、育ち「江戸川の顔」と呼ばれている女性同盟東京都本部顧問の尹貞淑さん(78)。開設以来「うりまだん」の運営に心を砕いてきた。30余年間の長きにわたって女性同盟江戸川支部委員長(非専従)を務め、退いたいまも忙しく走りまわっている。

ひどい民族差別
 

元気に地域を飛び回る尹さん

 1920年代の半ば、先に渡日していた忠清道出身の父を追って母と5歳の兄と共に日本に来て、落ち着いた先が江戸川だった。「八百屋の軒先でりんごを拾って食べた」「井戸からくみ上げた水は、赤茶けて、不衛生そのものだった」などと父から聞かされたことがある。そんな環境のせいか兄と生まれた妹も相次いで亡くなった。

 貧乏から抜け出すために両親は懸命に働いた。やがて父は鉄くずや古着を集める古物商の卸問屋を始め、オモニはタッペギ(どぶろく)を家で作って売るようになった。

 38年、近所の尋常小学校に入学。そこでもひどい民族差別を受けた。「弁当の時間がいやでね。オモニが作ってくれる弁当は、ミョンテ(スケソウダラ)やキムチなどにんにくやとうがらし入りのおかず。持っていくと苛められる。だから昼休みになると家に帰ってご飯を食べて、また学校に戻った。幼い身にはそれが負担でね…」。

 戦争末期の44年、13歳で実践高等女学校に入学。学徒動員された亀戸の町工場で変圧器を作らされたことをよく覚えている。「当時の教育は、朝鮮を徹底的に見下すものだった。ある日、音楽の授業で先生に本名で呼ばれて、顔が真っ赤になった。そんな中でも、心を通わせる日本人の親友ができたが…」。

 祖国解放。江戸川の同胞たちも活気づいた。父は朝聯江戸川支部委員長に就任。家の前に事務所が作られ、同胞たちでごった返していた。隣接する尹さん宅にも人が押し寄せ、母が食事の世話に追われていた。
 

若いオモニたちとフラワーアレンジ教室で学ぶ(デイハウス「うりまだん」)

 その頃、尹さんを悩ましたのは、両親の不和だった。尹家の代が絶えるのを恐れた父は外に息子を儲けた。「封建的な時代だった。男尊女卑を地で行く父は帰国事業が始まるや否や、息子たちを連れて帰国した。朝鮮人は朝鮮で育てねばとの理由で」。その後、父は祖国で死去したが、生さぬ仲の子どもたちのめんどうを生涯みたのが尹さんの母だった。

 「人一倍苦労したが、分け隔てなく子どもたちを愛し、世話をした。一事が万事そうだから、同胞たちにも尽くし、慕われた一生だった」と母の思い出を語る。15年前に87歳で亡くなった母の葬儀には、400人の同胞と日本の人々が参列したという。

 娘はその背中を見ながら歩き続けてきた。1950年19歳のとき、9歳年上の朝聯活動家、李昇鉉さんと結婚。三男一女に恵まれた。母を手伝いながら家業の焼肉店の切り盛りと子育てに精を出した。多忙な暮らしのなかでも、女性同盟支部の仕事は何でも引き受け、37歳のときから委員長を務めた。「『カラ、オラ(行け、来い)』と言われれば、無条件それをこなすのが私たちの仕事。祖国と共に歩んだ道のりもいつの間にか60年を越えた」。

 あるとき民団系の同胞と話していたら、「国が豊かでもないのに、(北は)無理して教育援助費まで送って来て」と非難されたことがあった。そのときほど、祖国を誇らしく思えたことはなかったと語る。

 「私たちは国を奪われ、喪家の犬にも劣る無権利状態の中で育った。だからこそ、解放後、1世たちは血と汗を流しながら、民族教育の土台を築いた。そして、主席は朝鮮戦争停戦から間もない57年、復興建設真っ盛りの頃、すべてに優先させて教育援助費を送ってくれた。祖国の人々は食べるのも、着るのも我慢しながら、異国で育つ未来のつぼみたちに多額のお金を回してくれたのだと思う。今、活動のバトンを安心して次世代に渡すことができるのもそのお陰。主席に心から感謝している」と目から涙が溢れ出た。

母の無言の教え

 長い間闘病生活を続ける夫を献身的に看病しながら、顧問となった今も、地域に張り巡らした多様なネットワークの要としてエネルギッシュに活動する尹さん。商工人たちと力を合わせて祖国に編物工場を贈った「2.8会」、地域民団の人たちと食事などして楽しむ「友人会」、長い間活動家の夫を支えた妻たちの「ミナリ(せり)会」などを組織、みんなと一緒に旅行を楽しむ江戸川高麗長寿会会長の顔もある。さらに、朝・日友好運動を半世紀にわたって、共に担ってきた日本の友人たちとの交流も欠かさない。

 その幅広い活動の原点には、どんなときも弱音をはかず祖国一筋に歩んだ母の姿があるという。

 日本に氾濫する祖国を中傷する報道。そこで揺れたり、疑問を口にする人とは互いに心を開いて率直に語りあう。いつも持ち歩く手さげ袋には、朝鮮問題の資料がぎっしり詰まっていた。「だって、一生勉強でしょう」とにっこり笑った。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2009.3.13]