〈民族楽器のルーツをたどる ウリナラの楽器 I〉 蟹降、螺角、笙簧 |
農楽の始まりを告げるラバル、日本の雅楽との関わりも
今回は管楽器のルーツを隣国に及ぼした影響を考えながらたどることにしよう。 まずはわが国で唯一とされている金管楽器、ラバルの紹介。 この楽器は楽器作りの主な材料である八音−金・石・糸・竹・匏・土・革・木の8種類を材料とせず金属でできた楽器で、上の部分にマウスピースがあり胴体は細い筒状になっていて下の部分がセナプの下部分の銅八郎のように開いている。
楽器には穴がなく、一つの音だけを長くもしくは短く出すだけで旋律は演奏しない。この楽器を使い始めたとされるのは1370年(高麗・恭愍王19年)頃。軍隊の行進音楽を奏でる上でセナプ、ラガク(ナガクともいう)、バラ、ジン、ヨンゴなどと一緒に使われ、軍隊での合図にも使われた。また、プンムルノリ(農楽)では行進、音楽の始まりを知らせる信号音として重要な役割を果たした。南朝鮮では長く伸びているラバルをしまうときは3つに分けるよう考案されている。
次は軍隊行進で使われたもう一つの楽器、ラガク。「ナ (螺)」 または「ソラ(螺)」または「コドンイ」とも呼ばれる管楽器の一つだ。海にいる大きな巻貝のとがった部分に吹口を作って挟む。 この楽器は単純ないくつかの倍音を出すことができ、低く響きわたる音は雄壮だ。高麗時代、宮廷での行事軍楽にラバルとかわるがわる使われた。 最後に紹介する楽器はセンファン(笙篁とも記す)だ。三国時代から使われた国楽器の中で唯一の和音楽器で、わが国固有の楽器である。新羅成徳王24(725)年につくられた上院寺の鐘などに刻まれている。 センファンは17個の菅がありそれを細い糸で固定する。やかんの口のような形の部分に口をつけ、息を吹き入れたり吸いながら演奏すると高さの異なる16の音がでる。主に宮廷音楽や音楽家たちが演奏した。
さて、この楽器を見る限り、読者は日本の雅楽の笙を思い浮かべたことと思う。ここで少しだけ雅楽のルーツをたどって見ることにしよう。雅楽とは、日本で一番古くからある音楽や踊りを、奈良、平安期頃に同外来物と合わせて様式化したものをいうが、海を挟んで中国、朝鮮とは、遣渤海使、遣唐使、遣隋使が派遣されるずっと前から様々な交流があったとされる。
日本書紀に允恭王の時(453年)、朝鮮の新羅王が、新羅の楽士80人を派遣して允恭王の葬儀に参列したということが記されている。これが文献に見える外国の楽舞が日本へ来た最初の記録と思われる。このときは葬儀に参列しただけだったが、その後の欽明王15(554)年には、百済の楽人4人が来日し、先任者と交代しようとしたとの記録が残されている。「交代」の記録からすでに楽人が日本に滞在していたことがわかり、この時代には百済の楽舞、高句麗の楽舞が渡来していたことが見えてくる。 また、推古王20(612)年に、百済の味摩之が日本に住みながら伎楽(中国大陸の呉国に伝わる楽舞)を伝えた。そのため日本では呉楽といわれた。 日本の雅楽は、日本古来の歌舞と大陸などを通じて日本に伝わってきた楽舞と大きく二つに分けることができる。大陸から伝わった楽舞は、さらに二つに分けることができ、それが、左方の楽舞「唐楽」と右方の楽舞「高麗楽(新羅、百済、高句麗、そして渤海楽)」となる。わが国は中国同様、日本に音楽文化を伝えた国の一つであった。(康明姫・民族音楽資料室) [朝鮮新報 2009.3.13] |