〈遺骨は叫ぶ-24-〉 山口県・東見初炭鉱 |
理不尽な暴行に決起、危険な作業に実働12時間、特高が監視
山口県宇部市にある宇部興産の傘下にあった沖ノ山炭鉱と東見初炭鉱(1944年に沖ノ山炭鉱に合併)は、早くから開発された炭鉱だった。いまからおよそ300年前に見つかったが、そのころは地元の人たちが石炭を薪のかわりに使っていた。時代が下って大量に発掘されると、下関・秋穂・防府などの塩を作る所に運ばれたので、石炭は資源として重要になった。 しかし、明治末期になって、沖ノ山炭鉱や東見初炭鉱で近代技術による本格的な採掘をはじめると、宇部市では労働者不足が深刻になった。また、日本が朝鮮の植民地化を進める過程で、土地や仕事を失った多くの朝鮮人が職を求めて日本にやってきた。 朝鮮半島と連絡船が往復していた下関市には、朝鮮人が海を越えてやってきた。その下関市と古くから石炭でつながっていた沖ノ山炭鉱や東見初炭鉱が、朝鮮人たちの働き場となった。労働力が不足していた宇部市の炭鉱にとっては助け船であり、年ごとに朝鮮人労働者に依存を強めていった。1926年には400人の朝鮮人が宇部市にいたが、その60%が炭鉱で働いた。1928年になると、1200人と朝鮮人は多くなった。 だが、朝鮮人の労働力を必要としながらも、劣悪な環境の中に置いていた。宿舎を見ると、バラック建ての大部屋に180人の大勢を詰め込んだ。炭鉱全体が木の板囲いの中にあったが、さらに宿舎は人の背丈の3倍もある板塀で囲んでいた。板塀の四隅には見張り所があり、同じ朝鮮人の監視人が見張っていた。仕事に行く以外は、板塀の外に出ることが禁止されていた。宿舎内の他の宿舎に行くことも自由にはできなかった。夜は一晩中巡回が回っていた。
宿舎と外との連絡は賄いの朝鮮人の女性や、朝鮮餅を売りにくる女性に頼んでいた。炭鉱の事務所には憲兵が1〜2人常時駐在して、朝鮮人たちを監視していた。
朝鮮人たちの仕事はほとんどが坑内労働で、体の弱っている少数の人だけが坑外で働いた。労働時間は厳しく、掘進夫=3交替の8時間労働、その他=2交替の12時間労働となっていた。だが実際は、朝5時に坑内へ入り、出てくると夜の7時とか8時という状態だった。実働が12時間で、入坑してから作業現場までの往復時間とか、作業準備の時間、休憩時間は入っておらず、昼の弁当も立ったまま食べていた。これほど朝鮮人たちを働かせても、炭鉱では労働力が不足していた。 1937年に日中戦争が始まって、石炭の需要が高まり、沖ノ山炭鉱・東見初炭鉱にも石炭増産が求められた。労働力の不足がいよいよ深刻となり、「山口県下で最初に結成された徳山市の『勤労報告隊』が東見初炭鉱に入坑」したり、女子挺身隊が「沖ノ山鉱業所に30人が入坑」(「宇部市史・通史篇・下」)している。婦人の坑内労働を禁じてからわずか6年で廃止にしている。 こうした状況の中で、その不足を補う労働力としてさらに朝鮮人連行者を必要とした炭鉱では、募集にいっそう力を入れた。その結果、県警察部の調査によると、1944年11月時点で、沖ノ山炭鉱1263人、東見初炭鉱1283人の朝鮮人が働いている。大幅な増加である。しかし、朝鮮人の強制労働は、一段と厳しくなり、逃走なども多発した。だが、逃走に失敗して捕まると、半殺しにされた。 「事務所の中で折檻されて『哀号−哀号−』と、悲鳴を上げるのを聞いたことがある。また、折檻役は同じ朝鮮人の労務係が当たっていた」(山口武信)という。 しかも朝鮮人連行者は、炭鉱側の理不尽な処遇や、日本人の暴力に時々集団で抵抗した。東見初炭鉱では「戦時下の『石炭緊急増産対策』を遂行する中で、朝鮮人労働者との間に、しばしば紛争を発生させていた。とくに4月14日、忠清南道出身者54人が、『隊長』の無断欠勤者殴打事件をきっかけに、炭鉱事務所に『殺到』した争議や、さらに7月12日、『班長』以下、稼働朝鮮人299人の全員が『募集条件に違背あり』と訴えて、炭鉱側の説得を拒んで『怠業』した争議は、宇部警察署の知るところとなり、その概要が『特高月報』に掲載されている。これによると、東見初炭鉱は、4月の事件の場合、宇部警察署の特高主任以下の『慰撫鎮圧』で『円満解決』し、7月の事件の場合は、班長以下の20人を『本籍地に送還』して解決している」。 また、「宇部興産沖ノ山鉱業所や沖宇部炭鉱でも、同年8月12日と9月1日に日本人労務係の暴言や暴行に対して、朝鮮人労働者が反抗する事件が起こって、緊張関係が続いていた」(同上)。 1944年11月時点で沖ノ山炭鉱1263人、東見初炭鉱1283人の計2546人の朝鮮人連行者が危険な坑内労働をしたのに、ケガや病人、死亡者などが出たという資料は残されていない。宇部興産に問い合わせても、「当時の資料はありません」と言うだけだ。ただ、1964年に鄭晋和が調査しているが、宇部市地域の朝鮮人の「死亡者260余名、遺骨100体以上を確かめたが、これらは一部でしかない。推計すれば1000名の死亡者があると思われる」(「朝鮮人強制連行の記録」)とあるものの、詳しくはわからない。いまからでも遅くない。真相を掘り起こさなければならない。(作家、野添憲治) [朝鮮新報 2009.3.9] |